、


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

何かとしつこく付き纏う性質の悪い客が居る

 と彼女から予てから苦情を聞いていた妙は目の前の光景を見て成る程これが噂の男かと一人納得し大きい目をすっと細めそして机を右手のチョップで粉砕した。黒漆塗りのテーブルはパラパラと粉を噴き出しテーブルの上に乗っていた筈のグラスがパリーンと嫌な音を立てて次々崩れ落ち床は液体でビショ濡れになる。然しこれらは妙の所為ではない。目の前の男───この客がルール違反を犯すためだと妙は一人ごちる。しかもどこぞの貿易会社社長だと言い張る様子に違わず金払いが人一倍、否、人二倍程好い為店側は全く庇ってくれずに彼女だけが犠牲になっている。酔ってベタベタと付き纏いセクハラ紛いの事をする様子は明らかにこの店の規約違反である筈、これを見逃さない妙ではなかった。
「はーいお客様、それ以上は厳罰対象ですよ〜 ウフフ、ウチの店のルール分かってらっしゃいますよね〜?」
「アッハッハ、別嬪さんなのにこの怪力っぷりは勿体無いぜよ〜」
「ウフフ、それってどういう意味かしら?」
 妙の握ったグラスの生き残りがパリーンと砕けた。男は物怖じしない様子でアッハッハ〜と妙に間延びした間抜けな笑い声を立てている。どうやら身の危険もロクに察知出来ないような馬鹿らしい。
「ちょっとちょっと、また店の備品壊しまくって、後であのウスラハゲ(※店長)にまぁたグチグチ言われても知らないよ?」ヒソヒソと耳元で囁く彼女の声を受け、妙も不満げな顔をしながら吐息だけで喋る。「別にあのウスラハゲ(※店長)の説教なんか怖くないもの。それよりおりょう、さっきからセクハラ紛いの事されてるみたいだけど大丈夫?なんならこの際全治二ヶ月くらいの大怪我させて病院送り二度と店に来れない体にした方がいいんじゃないかしら〜?」「ちょっとォォォォ!!それは幾らなんでもマズイでしょうが!アンタいい加減捕まるっての!」「アラ〜大丈夫よ。こういう時の為にあの真選組のゴリラさんが居るんじゃない」「揉み消す気かァァァ職権乱用で揉み消す気かァァァァ!!アンタどこまで腹ン中真っ黒なんだよ!」
「アッハッハ〜別嬪さん二人でコショコショ話とは寂しいぜよ〜僕も仲間に入れとおせ〜」
 すっかりドンペリで出来上がっているらしい男は何がおかしいのか楽しげな笑い声。気色悪い事この上無い。
「…お妙、気持ちは嬉しいけど、大丈夫よ。さっきからガンガン蹴ってるし、ドンペリはとりあえず奢らせまくったし」
「そう?ならいいけど、…心配だわ」
「大丈夫大丈夫。あんがとね、お妙」
 にかっと綺麗に笑んだ顔を全く崩さず、今度は酔ってへらへら足元に縋りついてきた男の顔をおりょうは容赦なく蹴り飛ばす。ゴッと骨が軋む嫌な音。…スナックすまいる、暴力の温床であるが摘発された例は一度も無い。(主に常連VIP客として某警察庁長官のM.Kと武装警察真選組局長のK.Iが自らの利益の為に苦情・摘発要請を裏で握り潰している模様。)矢張り夜の蝶は恐ろしや。

 

 

 

 

二、

「ハー、肩凝った。もう、あの客金払いがいいからまだ黙っといてやってるけど、アレで貧乏男だったら軽く顔面複雑骨折ぐらいの目には合わせてやりたいね」
「やっちゃえばいいじゃない。きっとスカッとするわよ」閉店時間を迎えいそいそ帰り支度をする妙は可愛い笑顔で恐ろしい事をサラリと言う。
「…アンタは何時でも何処でも誰が相手でもお構いなしだもんね…」妙の御蔭で店が用心棒を雇う必要が無くなったのは事実だ。
「ああいう金持ちはきちんと手綱を掴んでおかないとダメよ、おりょう」
「アンタのアレは手綱と言えるのか…?つかただの暴力じゃん、モロに嫌悪と憎悪からの暴力じゃん」
「いいのよアレで。男は皆ケダモノよ、汚らしい妄想に満ち溢れ下半身の利益だけで動く最悪の生き物よ。だから搾れるうちに搾りとっておかないとね。こういう仕事は年金も出ないんだし」
 しっかりしているんだかしていないんだか分からない発言だ。
「はぁ、こういう話になるとキャバクラ勤めもイヤんなるよね。どっかにジェントルマンでカックイ〜金持ちは居ないかな〜あんなセクハラモジャ男ではなく」
 欠伸し肩を回すおりょうの横で、妙が目を僅かに見開いて瞬きした。
「結婚願望あるんだ?」
「あるわよー。そりゃあ、養って貰えるんなら、ねェ。だって金あるんなら態々こんな商売しないよ。さっさと優しくてイケメンで妻一筋の金持ちと結婚して家事洗濯全部召使いに任せて自由快適な素敵な奥サマライフを過ごしたいってのー」
「ふぅん、そうなの。……でも、結婚ってそんなに好いものなのかしら」
「というと?」
「結婚するって事は自由がなくなるって事じゃない。つまりは男共は世話してくれる女が欲しいのよ。奴らが望んでるのは性欲解消と身の回りの世話をしてくれる“召使い”よ。そもそも、世の中におりょうの言うようなジェントルマンが果たして本当に居ると思う?金持ち、家庭ではいい旦那さん面、妻に理解があるような夫、そういう男はねぇ、どうせ奥さん囲って好い夫演じながら陰でキャバクラ通いよ。ついさっきまで此処に居たバカな男達と一緒」
「…常々思ってたんだけど、アンタ、ちょっと、…いや、かなり男性不信入ってるわよね…」
「私がこの世で愛している男性は新ちゃんとお父上だけだもの」
 ここまで目を惹きつける美貌を持ちながら、髪を梳かしつつ素っ気無く答える姿を勿体無いとおりょうは考える。
「…そんな事言っといて、アンタはどうなのよ、お妙。結婚したくないの?あの常連のゴリラとか顔もブサイしストーカーだけど、カレ一応高官だし金持ちなんでしょ?」
「ごめんなさいね〜私ちょっと人外は許容範囲外なの〜」
 ウフフ、と天使の笑顔で物凄い可哀想な事を言う。おりょうは内心あのゴリラに向かって合掌する。
「じゃ、じゃあアレは?アンタの弟の勤め先の上司って人。この間連れて来てたじゃん、阿音との売り上げバトルで。ホラ、あの銀髪の人」
「あの人はマダオよ。まるでダメな男の人類代表よ。あんな滅茶苦茶な男に関わってたら身が持たないわ」
「へ、へぇ〜」
 おりょうの笑顔が痙攣した。…でも、でも、よ〜く考えると今の発言って。
「───でも一応、その人の事人間とは認めてるんだ?」
 男はケダモノだの、あのストーカーゴリラ男を人外だのボロクソに言っていた彼女が、マダオだなんだとはいえ銀髪のカレだけは一応人間扱いしているらしい。というか、そういう風にしか聞こえなかった。黙り込んだ妙の顔を覗きこみ、おりょうはニヤニヤと笑う。もしや、これってもしかして?
「…何よ、その笑顔は。変な勘ぐりは止めて頂戴、あんな男を好くくらいならそれこそゴリラと付き合った方がマシだわ」
「またまたぁ。そうやってムキになる所があやすぃ〜」
「別にムキになってなんか居ません、事実です。あんな万年金欠不潔男は御免です」
「素直じゃないんだから〜。アンタも隅に置けないねェ。このこのー!」
「…」
「で、ドコまで行ったのよ。まさかまだ告白してないとか言うんじゃないでしょうね、ダメだよそんな消極的じゃあ、あ、でもアンタ意外とオクテそうだもんね。でもいいじゃんあの人、金は無さそうだしカッコも変だけだしえぐいセクハラ発言するけどお触りはしないし、結婚したら俺亭主関白だからとか言い張ってたけどアレ絶対ウソだよ、絶対奥さんに尻にひかれるタイプだねアレは、だからそういう意味ではアンタとは凄い相性良いんじゃない?一生お妙の下で健気に献身してくれそうじゃん、ホラホラどう考えたってお似合いだってアンタ達。うーんそれからあの銀髪はどうかと思うけど、だって金髪に染めるとかならまだしも銀だよ銀、どんだけ目立ちたいんだよーって感じ!アレで地毛だとか言い張るんだから笑っちゃうよね〜どこのホストだっつーの、まぁでもツラはまぁ見れなくもないんじゃない?私のイケメンセンサーは作動しなかったけど、黙ってたらまぁまぁなんじゃないの?女に手ェあげるタイプでもなさそうだし、結構モテるタイプだと思うんだけどな〜お妙、今のうちにちゃんと手綱握っときなさいy」
 急に下を向いて黙りこんだ妙は何の前振りもなく腕をおりょうの顔のすぐ横に叩きつけ、ドゴォォォォッ!!!という物凄い音と同時に衝撃波、崩れた壁の残骸がおりょうの顔に突風の如く吹き荒れる。…壁に、妙の拳がめり込んでいる。おりょうの顔と慈悲無き破壊神の拳、その距離およそ3センチ。
「…違うって言ってるでしょう?」
「…………………スイマセンでした」
「それとね、一つ言っておくけど、あの男がウチの店でお触りしないのは私が後ろで目を光らせて拳をゴキゴキ鳴らしてるからよ。分かった?」
「………………………………………申し訳ございませんでした」
 破壊神の神々しいまでに恐ろしい笑顔、そして甘やかながらも怜悧な刃を感じさせる声音におりょうは震え上がった。───矢張り彼女はあな恐ろしや。

 

 

 

三、

「おりょうちゃ〜ん結婚してくれ〜」
「近寄るな。うざい」ゴッと容赦なく肘鉄。男は鼻血をたらたら垂れ流しながらそれでもアッハッハーと豪快に笑っている。
 確かに金持ち御曹司、でも間違ってもこんなセクハラスケベ男とは。どうせこの男も色んなおんなに言い寄っているのだ。おんしだけじゃ、と言っておきながらどうせ違うおんなにも同じ事を言っているのに違いはないのだ。
「つれないの〜。僕はウソは言わん主義ですろー」
「それがウソだってんですよ。口八丁よりも背中で語る人が私は好みなの」
「ほんにつれない。けんどそこが好きじゃ〜」またも抱きつこうとする巨体を肘鉄で沈める。
「…冷たい人が好きなの?アンタ、ドM?」
「アッハッハ〜今の肘鉄は流石に効いたぜよ〜」
「ドM。喜ぶな、ほんとキモい」
 全てが演技染みて見える時がある。おりょうは自分の直感を何より信じている。この男は信用ならない。愛だなんて簡単に口にするような男は。
「…おんしは沈黙こそが愛だ、とでも言うがか?」
 わしも遠い昔はそうと信じていた時もあったの〜。
「しかしな、行為の伴わない表現は嘘っぱちじゃ。日々後悔する事のないように人は勇気を持って行動せんといかん」
 男の言葉におりょうは少しムッとして言い返す。「じゃあ、アンタは後悔する事が無いってワケ?」

 男は困ったような笑顔を見せた。色の濃いサングラスの奥で色の無い瞳が伏せられる。

「…未練は無いつもりなんじゃけどなぁ」
 大きな手が優しげにそっと撫でたのは、酔っ払って傍らで机に突っ伏してすうすう寝息を立てている銀色頭である。おりょうの動きが固まる。
 え、今のって。今のってどういう意味?そして何で今この人の頭撫でたの?
 これって、もしかして、もしかして───

 店の入り口がその時勢いよくバタンと開けられ、編み笠を被った長髪の美女がツカツカと大股で歩いてくる。屈強そうな大柄の男を二人背後に引き連れ回りを一瞬見渡したかと思うと、こちらを見て脇目もふらず寄って来た。
「…こちら陸奥、無事モジャモジャを発見。ヘリは例の場所に停めておけ、これから運ばせるから出発出来るよう七分以内に準備を。ターミナル停泊中の快援隊本機に合流次第会談へ。酒気が醒めんようなら五発まで平手打ちを許す。…それ以上やってこれ以上見れん顔になったら会談に響く」
 無線で話しているらしい。後ろに居た大男二人も彼女の目配せ一つで頷き、ズルズルと坂本を引き摺ってゆく。店を出る気だ。
「あ、ちっくと待っとおせ〜陸奥!折角のおりょうちゃんとの逢瀬が〜!!」
「聞く耳持たん。大事な大事な会談前に黙って勝手に会社抜け出す阿呆にはな」
「わ、わわわしが悪かった!だから…だから今だけはどうか〜〜〜!!」
 バタン!扉が閉まった。坂本が男にズルズル引き摺られながらまだ外で何か喚いているのが聞こえる。…何、アレ。
「…さて」
 美女がおりょうを見る。道中合羽に三度傘、侠客じみた格好だ。
「主がおりょうちゃんとやらか。わしは陸奥と申す者」
「はぁ…」
「毎度毎度ウチの馬鹿が迷惑をかけ申し訳ない。…時間が無い為、今日のところはこれで見逃してくれんか」
 そっと手渡されたのは分厚い札束だ。おりょうは慌てる。
「や、そんな、あのクソモジャならともかくあなたからこんなもの受け取るワケには!」
 本音である。アッハッハッハッハッハッハ泣いてイイ?と言う男の声が聞える気がする。
「いや、そういう訳にはいかん。物事には通すべき仁義ってもんがある。受け取ってくれ」
 スッと頭を下げた女におりょうは慌てた。
「う、受け取れません、こんな大金、私には。……大丈夫ですから、気ィ遣わないで下さい。御願いですから」
 女はおりょうの顔を見、柔らかく微笑する。
「…優しいのお、おんしは。ウチのバカが本気で惚れるのも分かる。あの男、頭はカラけんど人を見極める目ば本物やきー」
「……え?」
 おりょうのうろたえる声に答えず陸奥と呼ばれる女性は曖昧に笑んだだけで、踵を返す。
「また何かあのモジャモジャに嫌な事されたらいつでも呼んでくれろー。力ば貸すきぃ」
「あ、有難うございます」
「おっと、これを渡すのを忘れていた。…じゃあ。また」
 女は店を出て行った。受け取った名刺を見る。星間貿易会社快援隊、と書かれていた。

 

「誰?」
 ヒソヒソと耳打ちする妙におりょうは半ば呆然と答える。
「陸奥さんって人」
「だから誰よ」
「分かんない…けどあのセクハラ男連れてったよ。会社の同僚の人かな。秘書かも。…もしかしたら、奥さんかも」
「それはないわよ。あの坂本って人、どう見たって既婚者じゃないもの」
「でも陸奥さん凄い美人だし優しいし…慰謝料として金受け取ってくれって…」
「奥さんだったらそんな事しないわ。ヒステリックに喚くだけでそんな大人な対応は出来ない。…で、結局受け取ったの?」
「受け取れないよ。いい人だもん」
「ダメね〜まんまと相手の策略に引っ掛かってるじゃない。あなたが良心の呵責から差し出されたお金を受け取らない事を見越して差し出してるのよ。ここで受け取らなかったら相手の思う壺じゃない」
「む、陸奥さんはそんな人じゃないって。多分だけど」
「さて、どうかしら。けど商売人ってそんなものよ」
 詰まらなそうに言い放つ妙は、相変わらず眠りほうけている銀色頭の財布をポケットから抜き取り、イソイソと御札を抜き出している。
「…アンタ、それ犯罪じゃね?」
「いいのよコレで。だってこの人ウチの新ちゃんの給料全然払ってないの。だからとりあえず新ちゃんの分を抜き出しておいて、そしてその後お会計するつもり。…坂本さん帰っちゃったんなら一人で払わなきゃなんないのね〜カワイソウね〜ドンペリ五本もあけてるのに」
 全く心が篭っていない。好い加減この銀色頭に同情を覚えるおりょうであるが、そういえば思い出した事が一つある。
「───ねぇ、お妙。この銀髪と、あのモジャモジャってどういう関係なの?」
「どういう関係って…」
 お友だちでしょ。たまーに坂本さんが家に遊びに行ったりしてるみたいよ。
「それがどうしたの」
「いや、別に…」
 首を傾げるお妙から顔を背け、おりょうは誤魔化すように笑う。

              『…未練は無いつもりなんじゃけどなぁ』
 慈しむように銀糸を撫ぜた大きな手。
 苦笑するような声。
 いつもとは違う、その表情。

 いやいや、そんなまさか。ホモじゃあるまいし。考えすぎだよ。そうそう、考えすぎ。だって陸奥さんみたいなあーんな美人がいるんだし、そうそう、考えすぎ考えすぎ!もう私ったら早とちりしちゃってさ〜バカみたいよアッハッハッハー

「……おりょう。笑い方」
「アッハッハッハーなぁに?お妙」
「…………坂本さんの、うつってるよ」
 ギクリ「………」
「やっぱり、あなた、坂本さんの事好きなんじゃないの」
「ちちち違うし!なワケないし!」
「どうだか。…お似合いよ、あなた達」
「やめてェェェェェ!!!本っっ当興味無いから!あんなん好きじゃないから!」
 黙って笑いを堪えているお妙。否定すればする程彼女は面白がるに違いない。というか彼女の中ではもうおりょうと坂本=ラブラブという方程式が出来上がっているに違いない…「大丈夫。私はおりょうの味方だから。応援してるよ」「だから違うってばァァァァァァ!!!」
 …矢張り、彼女はげに恐ろしや。

 

 

 

 四、

 さて同時刻、かぶき町のとある一角に構えるラーメン屋の戸を叩く人影がある。
「はーい、いらっしゃい………って、何だまたアンタか」
「アンタじゃない桂だ。いつものを頼む」
「はーいはい、ソバね。ったく、一応ウチはラーメン屋なんだけど」
 と言いつつ、ソバをメニューに加えたのは店長である幾松本人に他ならない。
「それより、まだアンタこの界隈うろちょろしてんのかい?一応指名手配犯なんでしょ」
「指名手配犯じゃない桂だ。…俺は日本の黎明を探している。死を臆する者がどうして大事を成し遂げる事が出来よう」
 いつもの説教である。幾松は聞き流しつつ話題転換をする。
「あれ、そういえば、…エリザベスちゃんは一緒じゃないのかい」
「───実は一昨日大喧嘩してな、あいつとは別居中だ」
「喧嘩?」
 珍しい。桂はあのペット(?)を目に入れても痛くないとばかりに可愛がっている。
「あやつめ、甘ったれた軟弱な食べ物を食すな、武士たる者質素で素朴なものを食せ、さもなければどこかの誰かさんのように身も心も堕落してしまうぞとあれほど言ったのに、俺に隠れてこそこそとパフェを食っていた。許せん」
「…別にパフェ位いいんじゃないの?」
「いいや、許せん!何より俺に隠れてコソコソしていたのが許せん…俺とエリザベスの仲はそんなものだったのかと……クソッ…エリザベスめ……」
 顔を逸らし辛そうに顔を歪める桂。だが話の内容が内容であった。葱を刻んでいる幾松の目がジト目になる。
「………早く仲直りしなよ」
「俺はしようとしたのだ!俺も言い過ぎた面があると反省し昨日エリザベスを訪れた!だが…だが………」
「なによ」
 桂は顔の前に掲げた両手をブルブル震わせ、真っ青になった唇でこう告げた。
「奴、………俺の知らない所で家庭を築いておった…………!!」
「…………」
 下らなさ最高潮である。
「妻と…子供まで!!おお神よ何故我にこのような絶望を与えたもうか!!」
「……………………で?」
「戦慄く俺を置いて奴はこう言った…『俺は父親として生きる。もうアンタには付いていけない…消えうせろ』とな!!許さぬ!許さんぞエリザベス!!恋愛だの何だの浮ついたものは攘夷を志す誇り高き武士には無用の長物だとあれほど!!」
「………放っといてあげれば?」
「攘夷志士たる者日々死を覚悟し清廉な心で生きなければならん!その心に在るのは大義其れのみ、故に色恋に囚われるワケにはいかんのだ!それがどんなに苦難で孤独な日々だろうと……だからこそ俺は彼奴を相棒として認めていた…どんな時でも逆境を乗り越えようとする強い意志と、強靭かつ廉潔な心の持ち主である彼奴をな…それが…何故…何故こうなったのだ…俺はまた独りになってしまった…ああエリザベス!!」
「悲しみに酔い痴れてる所悪いけどさ、ソバ、出来たよ」
 テーブルに注文されたソバを出す幾松の手首を、俯いていた桂の左手がぎゅっと捕らえる。幾松が狼狽する。
「な、なによ」
「幾松殿…」
「だから何!」
 幾松を正面から見詰めた桂の目は血走っている。

「結婚してくれ」

 …………………………………………ハイィ?

「な、ななななななな…」
 幾松の顔から湯気が沸騰する。
「俺の為に毎日この美味しいソバを作ってくれ」
「何で!なななななななんで!!」
「勿論、エリザベスを見返す為だ」
「アホかァァァァァ!!」
 しれっと答えるツラを殴ろうとした幾松、だがその手も桂によって阻まれる。両手首を握られた幾松、この状況にますます狼狽しますます顔が赤くなる。それというのも、適い様の無い力の差を意識してしまった為で。
「聞いてくれ…俺は幾松殿を好いているのだ。漂う気品、気の細やかさ、女性らしい其の仕草…気丈に振舞いながらもたまに見え隠れする陰もな」
「何言ってんだよ!いいから放しな!」
 といいつつ幾松はまだ赤面している。
「どっかの誰かさんと違って其の美しい直毛は性根の良さを物語っているし、どっかの誰かさんと違って甘いものを好まない所も軟弱な心を持たない事を表しており、またどっかの誰かさんと違って煙管や煙草を好まない所からも薄汚れる事の無い高潔な魂と趣味の良さを持ち合わせている事が分かり、そしてどっかの誰かさんと違いアッハッハーと煩い笑い声をあげる事も無く常に上品で、それからどっかの誰かさんと違い確かに言葉遣いはたまに乱暴だが粗野ではなく、やはりどっかの誰かさんと違い遠まわしに嫌味を言う事も無く、何よりどっかの誰かさんたちと違って俺をヅラと呼ぶ事も無い。人の名前を改変する事こそ悪の為せる業だからな」
 やけに具体的である。その、どっかの誰かさんとやらに相当な恨みでもあるのだろうか。
「じょ、冗談は休み休みにして頂戴。ホラ、ソバも伸びちまうし、好い加減手ェ離して…!」「もう一度言おう」
 桂の顔がずい、と近付くも、両手首を握られている幾松には逃げ場が無い。カタブツ阿呆の代名詞のような男だが、その顔だけは無駄に秀麗であり貴公子との呼び名に相応しい。その瞳が真摯に幾松だけを映している。幾松の心音が一際大きく高鳴った。
「俺は幾松殿を心から好いている。故、どうか俺と……」

 そこで桂の囁きが止まる。店の扉が静かにゆっくりと開けられた為だ。そこに立っていたのは。
「エ、エリザベス…!!」
 エリザベスと呼ばれた、白くて何だかよくワカラン生物は、いつもの顔で店の入り口に立ち尽くしている。暫しの沈黙の後、其れはさっとどこから持ってきたのか看板を掲げた。『桂さん』と書いてある。
「今更この俺に何の用だ!消えうせろと言ったのは貴様の方だろう!」
『……』
 わざわざ沈黙をあらわす点々も、また新しく掲げた看板に書いてある。何とも妙な所で甲斐甲斐しさを感じる。
「さっさと家族の許へ帰る事だな!お父上はさぞや忙しいだろうに!」
 嫌味を言う桂の瞳は伏せられ、何かを耐えるような表情をしている。
『…桂さん、もしや幾松さんと…』
「ああ、察しの通りだ。俺は彼女と結婚するのだ。そして貴様の家庭以上の素晴らしい家庭を築き上げ貴様以上に幸せな生活を送るのだ。そして俺はキャプテン・カツーラとして子供たちと共にひとつなぎの大秘宝…ワンピースを見つけるためにグランドラインを突き進む!」
「アホか」と幾松のツッコミ。
『………そうですか。桂さん、お元気で。お幸せに』
 看板を掲げ立ち去ろうとした白い巨体、幾松の手首を握っていた手を離し桂は咄嗟にエリザベスの太く短く逞しい(?)腕を掴んでいた。
「ま、待てエリザベス!」
 エリザベスは振り向かずに、看板だけを掲げる。…なに、この昔の恋愛ドラマみたいな、くっさい昼メロみたいな、そういう展開は。
『……何か用ですか』
「最後に一言聞かせてくれ。御前は、俺と居て本当に幸せだったのか…俺は、武士の心得を説き体面ばかりを気にする余り離れてゆく御前の心に気付けなかったのだろうか。俺は…間違っていたのだろうか…教えてくれ、エリザベス」
『………』
「エリザベス!」
 エリザベスは数秒沈黙し、そしてゆっくりと看板をあげた。
『あなたは何も悪くない、…俺が間違っていました』
『今日になって初めて自分の犯した過ちに気付き、あの女と離婚しました。子供の養育費は月々十分な額で払う事を約束して…。───あなたは何も悪くないんです、桂さん。俺はあなたに常々反発していた、自分の理想像を押し付けてばかりだとふて腐れ、キャバクラにも度々通った。あの女ともそこで出会った。…食の嗜好に至るまで厳しく説くあなたにこれ以上付いていけないと俺は思っていた、だがその厳しさは、俺を想う一心からだったと漸く気付いたんです』
 その白い巨体に不釣合いな小さな看板に、びっしり字が細かく書かれている。…ていうか、この看板どうやってんの。予め用意してあんの?コレ。
『あなたと交わした攘夷の志をも忘れ、自ら築き上げた家庭の中で、平和に生きる俺…これこそが俺の求めた人生だと思っていた。だが、違った。果すべき大義を忘れのうのうと日常を享受する事を選択した俺は、ただの負け犬だった。あなたは俺に大切なものを与え続けてくれていたのに、俺はそれに気付きもしなかった…』
「エリザベス…」
『あなたに会えて、俺は本当に幸せでした』
 最後にさっとこう看板を掲げ、エリザベスは歩き出そうとする。慌てたのは桂だ。
「待て、エリザベス!何処へ行く気なのだ、家庭と決別したのだろう?!」
『…大義を果さなければ。あなたが教えあなたがくれた多くのものを、俺はこれ以上裏切るワケにはいかない』
「…な…!一人で死地に赴く気か?!無謀過ぎる!」
『桂さん、あなたは此処で幾松さんと幸せに暮らして下さい。幸せで仲睦まじい家庭を築いて、好い父親になって下さい、…俺のようにはならないで下さい。子供や妻を…裏切るような最低な男にはならないで下さい…これが俺からあなたへの最後の御願いです』
「エリザベス!!俺達はそんな薄っぺらい間柄であったのか、御前が行くなら俺は何処までも付いていくぞ!」
 涙を流しながら告げた桂に、エリザベスがそこで初めて振り返った。
『桂さん、何を…』
「いいや、御前が何と言おうと俺は付いていく!俺にも一言言わせてくれ、…すまなかった、と…俺はいつも自分の意見ばかりを押し付け御前の心を考えようともしなかった!本当に罪深きは御前ではない、この俺だ!」
『桂さん』
 ホロ、とエリザベスの真ん丸な目から涙の粒が零れ落ちた。
「愛しているぞ、エリザベス。この世で一番愛している。俺の魂は、この命は常に御前と共にある!!…また、俺と共にこの国の夜明けを目指して闘ってくれ!!」
『桂さァァァァァァァんんんんん!!!』
「エリザベスゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!!」
 号泣しながらがしっと熱く抱き合う二人。今の今まで放置されていた幾松の機嫌は最低最悪なものであったが、次の桂の一言が決定打となった。
「…というワケだ、幾松殿。俺達、別れy」
「死ねェェェェェェ!!!!」


 どんがらがっしゃぁぁぁぁぁぁぁんっっっっ!!!!


 すっかり伸びきってしまったソバをどんぶりごと思いッきりその顔面に投げつけた幾松、昏倒した桂、幾松の般若の形相に震え上がるエリザベス、…日本の夜明けは相変わらず遠そうである。

 

 

 

 

 

 

五、

 

どんがらがっしゃぁぁぁぁぁぁぁんっっっっ!!!

 

「……?」
 たった今、前を通り過ぎたばかりのラーメン屋から物凄い音が聞えてきた為に、九兵衛の顔が曇る。酷い音だ。食器が割れる音と何かを渾身の力で殴るような音が合わさって強烈な轟音。心配になって様子を見に行こうとも思ったが、ふと窓から般若の形相の如き怒りを満色に湛えた表情の女性が見えたため、九兵衛はやっぱり止める事にする。恐らく夫婦喧嘩だろうと直感で判断する。「世の女性は怖ろしいのだな…」と身震いしながら呟く自身も女性だというのに。
 歩調を早める。目的地まではもう少しだ。

 小さな寂れた公園に差し掛かったところで、思いも寄らぬ人物を九兵衛は目撃した。間違いようも無い銀髪である。
「…何故こんな所に居る」
 大の男がぶらんこに座っているのである。おかしい事この上ない。
「あ?…もしかして、九ちゃん?」
「変な呼び方をするな。そう呼んでいいのはお妙ちゃんだけだ」
「ハイハイすいませんね〜ヒック」
 酔っているらしい。近寄ると噎せ返るような酒の匂いが鼻につく。
「そうそう、お妙ちゃんね、お妙ちゃん、あのメスゴリラ!俺の全財産奪ってしかも借金までツケやがった!なぁにが新ちゃんの給料貰っとくわ〜だよ、俺ァあいつらガキの為に涙も枯れるような献身してんじゃねーか、色々世話焼いてやったりよォ、給料なんかもうどうでもいいじゃん?どうでもよくね?金だぁなんだぁってよりも生きてるだけで毎日に感謝しないとさ〜おおう神さま俺を今日まで生かしてくれてありがとお〜〜〜〜!!ヒック」
「…ワケが分からない」
 酔っ払いの相手は御免だ、とうんざりしつつまだ銀髪の台詞は続く。
「アイツもアイツだよほんとよ〜なんなのあの貧乏神、あんのクソモジャ!惚れた女に会いたいだの何だのってよ〜一人で行けばいいのによ〜酒奢ってやるから一緒に行こうって言って付いてってやったら俺放っといて勝手に帰っただァ?ふざけんじゃねーよ頼むから死ねよ〜死んでくれよ〜」
「…何だかよく分からないが、僕は用事があるからこれで失礼する。酔っ払いはさっさと家に帰れ」
 泥酔し顔を赤くし平生から澱んだ瞳を眠たげに更に澱ませている男の姿は九兵衛の表情を険しいものにした。酔って大声で喚く男は見るに耐えかねる馬鹿であった。思い出すのは、妙を巡って柳生道場にて熾烈な闘いを繰り広げたあの日の姿だ。

 こんな男に、───こんな男に自分は本当に負けたのだろうか?

 隙だらけの姿。剣の道を志すには無防備過ぎるし自堕落過ぎる。摂生すら出来ないようならば侍の風上にもおけない。
「なになに、その用事ってなぁによ?九ちゃん。こんなカワイソウな銀さんを差し置いてよ〜」
「……お妙ちゃん宛てに、スナックすまいるに差し入れを」
 呼び名を訂正させる事は諦めた。
「ああそう、あの魔物の巣窟に行くワケ。じゃあそのお妙ちゃんにさァ、お金返してくれるように言ってくんない?俺の財布ホントに今スッカラカンなんだよね〜此の侭帰ったらウチのガキ共にブッ殺されるんだけど」
「僕はどんな時であろうとお妙ちゃんの味方だ」
「ハーイハイ、そうですね〜!クソッもう俺帰れねェよホント、今日なんか神楽に酢コンブ買ってきてやる約束してたのによ〜…ヒック」
 ぶらんこを微かに漕ぎ始める。錆びた音が響く。…男は見ていた。

 闇の中で、紅の目が残像を残してぶれる。生温い風が吹く。錆びた音。残像。無音。赤。赤。赤。男は九兵衛をじっと見ていた。
「眼帯…包帯じゃないのか」呟く声は嫌に鮮明にするりと耳に入り込む。

 何かがおかしかった。この場を離れなければと感じた。

「───失礼」
「なぁ、最後にひとつ聞いていいか」
 動悸がする。くれなゐが奇妙な光を湛えた

 

 

           どんな風に世界が見える?その右目でさァ

 

 

「………!!」
 抜刀しようとした右手は後ろから阻まれ、左眼の眼帯には微かな感触、…男の指が、つつ、と眼帯を上からなぞっていると気付いた。妙な汗が毛穴から吹き出る。
 主を失ったぶらんこはまだ寂しげな声を上げながらまだ微かに揺らめいていた。
 ぎーこ ぎーこ ぎーこ…
 真後ろから囁く声。

「訊ねただけで抜刀たァ、随分嫌われてんね、俺。てか、いつもみたいにうわァァァァって振り払わないんだ。男に触られてんのに」
 振り払わないのではなく、振り払えないのだ。そして、抜刀したのではなく、抜刀せざるをえなかったのだ。そう言えば初めて自分から触れた男も、この男だった。
「そんなに嫌な質問だった?別にそういう気は無かったんだけどよー、気に障ったんなら謝るわ。…てか、これセクハラかなぁ。ヤベーなチクショー、俺マジ酔ってんなぁ。ドンペリうまうまだったもんな〜ヒック」
 九ちゃんさぁ、離れる、今離れるから、頼むからアレだよ、チミの大好きなあのお妙ちゃんにセクハラ被害とか訴えないでよ、それされたら俺間違いなく次の日のニュースに載るから。かぶき町で自営業の男が謎の変死…みたいな記事になっちゃうからね、頼むよホント
 気配が離れたのを機に、九兵衛は黙って踵を返す。冷汗はひかない。早足。
 後ろで男は未だに何かを喋っている。「ホント頼むよ〜俺はチミを信じている!」だが、九兵衛は男を信じてなどいない。彼女が信じるのは自分と、それから大好きな彼女の眩しい笑顔だけだ。
 

 

 

 

 

 声が聞こえなくなって、目的地の前にたどり着いてやっと気付いた。あれは殺気ではなかった。狂おしい何かが感情の姿を借りて男から滲み出ただけだった。左眼には、まだ男が撫ぜた指の感触が眼帯の上に残っていた。得体の知れない男を九兵衛は微かに畏怖していたが、嫌悪は不思議と持っていなかった。店の戸をくぐると、幼馴染が嬉しそうに迎えてくれた為に、九兵衛はそれ以上の思考をすぐに放棄し、差し入れを手渡した。

 男は夜道を歩きながら、空を黙って見上げる。月が光っている。その光を男は長らく紅眼で凝視すると、また黙って真っ直ぐ歩き始めた。男はどこまでも一人だった、───家に帰るまでは。

 

 

 

六、

 ターミナルから出帆したらしい飛行船がすぐ近くを飛んでいたので男は見上げ、船腹に書かれていた見覚えのある貿易会社の文字を右目で読み取って薄く哂った。
「…二度と俺の前にツラ見せるな、と云った筈なんだがなァ」
 その時、女が笑顔で部屋に飛び込んできた。
「晋助さまァ!出航準備出来ましたッス!いつでもどこにでも飛べますッス!」
 窓辺に腰掛けて居る男は振り向かずに煙管の紫煙を吐き出し、それはゆっくりとうねりながら立ち上って夜を覆う。銀の月が遠くから見ている。
「……晋助さま?」
 反応が無い男に、訝しげに女は声をかけた。男の唇は僅かに弧を描いている…哂っている。
「月が綺麗だ。見てみろ」
 大きく輝くその幽光。
「晋助さまは、月が好きッスか」
 答えずに男はまた紫煙を吐く。
「なぁ、」
「はい」
「両の目で何が見える。あの月はどう映る」
「…」
 また妙な事を聞く。女は逡巡し、慎重に口を開く。
「どうって…月は月ッス。晋助さまの言うとおり、綺麗な月ッス」
「そうかい」
 くつくつ哂う。女は不思議そうな顔をしながら、先に船でお待ちしてますッス、早く来て下さいッスよ、と駆け足でまた消える。

 …だとよ。良かったなァ

 男は漆黒の夜空を見上げながら月に告げる。雲に隠れて見えない。
飛行船はもう見えなかった。
 月光を翠眼で凝視すると、男は黙って部屋を出、真っ直ぐ歩き始めた。男はどこまでも一人だった、───月が照るまでは。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

絶 望 的 な 愛 の 告 白 、他 三 篇