男が部屋に入って来ると、直ぐに香の匂いだと判った。
 其れも妙に甘ったるい、おんなものの。

「何処も彼処も時化てやがる。此方人等(こちとら)憂国の士だってのに…握り飯一つ、雑穀一握りすら出そうとしねェ」
 どかりと横に座り込む男。
 香の匂いは一層強まり、上に向かって吐き出した煙管の芳香と交わって、吐気をも催させる。
「…遊里にでも遊びに行ったんじゃアなかったのか」
 返事の代わりに肩口を布越しに柔く噛まれた。否定の心算だろうが、些か獣染みている。
「じゃあ物乞いの真似事でもして来たのか」
「クク、怖い顔だ。妬いてるのか?それとも誘ってるのか。何方なんだ」
「馬鹿か、怒ってるんだよ!」
「そんな向きになるこたァねーだろう。可愛げの無い」
「有って堪るか」
 男は素知らぬ顔で煙管を吹かす。

「酷ェもんだぜ。何処行っても一面の焼野原」

「百姓の男に懇願されたよ。これ以上無駄な戦をするのは止めろ、畑も田圃も燃やされ家内も失った。何時だって泣きを見るのは自分達百姓なんだ、と」
 だから俺は逆に問うた。この国が害虫に食い荒らされても好いのか。貴様の子孫が永劫鎖に繋がれ、奴隷として搾取されるだけの道を歩む事となるが好いのか。お上が決めた事だから仕方が無ぇ。勝てる見込みもどうせ無いんだろう。もう自分達を巻き込むのは止めてくれ。その一点張り。
「天人にしても俺達が悪。幕府からしても俺達が悪。果ては国人にまで言われちゃぁ終りだろうな。大義だ正義だと喚くヅラの顔が見物だ」
 

 

「…結局、戦場跡をそうやって見物にしに行ってたって訳?悪趣味な。にしちゃあこの匂いは何だ」
「帰り掛けに、執拗く誘ってくるおんなに会ったからちょいとな。序に腹が減ったから何かかっぱらって遣ろうとしたが」
「土産は無くとも、どうせ自分だけは馳走になって帰ってきたんだろ」
「御名答」
「そもそも誰も土産なんざ頼んでねぇんだよ!おんな誑かして手に入れた土産なんざ誰が…」
「ほォ。じゃあ此れは御預けだな」
 一目で上等な物だと分かる包み紙に包まれた餅を、眼前にぶらぶら出された。
「寄越せ!やっぱさっきの台詞無し。忘れてくれや」
「手前と違って記憶力が好いモンでねぇ。そりゃ鳥渡無理な話さね」
 そういうと男は餅をまた懐に戻す。
 
 そういえば、今日のおんなの唇は随分と柔らかかった。御前さんのは如何だ?ちょいと試させて貰おうか。

「ふざけた事を抜かすんじゃねーよ、そっちの趣味でもあんのか?」
「餅は要らねーのか?」
「…汚ぇぞ」
「褒め言葉だな」

 男は相も変わらず紫煙を燻らした。

「上手く答えられたら褒美を遣るよ」
「あ?」
「この矛盾。説明してみろ」
「…」
 ───この男。
「何云ってんだ、俺の答えなんか聞いた所で納得どころか頷きもしねぇ癖に、天邪鬼が」
「なら納得させりゃあ好い。つべこべ云わず早くしろ」

「…ヅラが詭弁を弄するのは何時もの話だろうが。正義は我に有り、なんざ子供騙し…だが、そう大義を掲げるのは集団を統制し導くには必要だ。結局の所、悪だの正義だのは自己弁護や正当化の為の言葉だって云ったのはそもそも手前だろ」

 難しい事考えんのも苦手だし、授業寝てたからあの人の教えなんざ覚えてねーし、だから余り気の利いた事は云えないけどよ。
 でも、目の前の大事なモン護りゃあ、其れで好いじゃねぇか。誰が何と云おうが、テメーの道を貫き通せば。
 所詮は其れもエゴだろうが、立ち止まってる暇なんか無ェんだからよ。

「それよか、落込んだんだろ?」
 高杉。
「こっち来る?俺様がぎゅっとして慰めてやろうか?ププ」
「その前に褒美が先だ」
 避ける暇も無く頬を両手で包まれたかと思うと、あっという間に唇が。
「な、…」
「………女の其れとは違って冷たくて薄いな。感触はまずまずだが」
「なな、何しやがる!!」
「何って、ご褒美さ。俺への」
「何でだァァァ!!餅はどうした餅は!!」
「また今度な、其れより、ぎゅっとして慰めてくれんだろう?何しろ自分で言ったもんなあ、銀時ィ」
 汚い汚いと喚いても男はニヤニヤ笑うばかりで褒美をくれそうに無い。
 このように、人を落胆させるのも統制するのも救うのも陥れるのも詭弁ならば、詰まる所世界は其れで出来ているに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20100128 恭