男の姿は幽鬼であった。
一面の赤。其の色彩全てが人間の血であると気付くには数秒かかった。惨場に慣れ過ぎているこの眼でも、吐き気を催す。
───遅かった。遅すぎた。足ががくりと震えた。
目の前の男に手を伸ばす。しかし届く前に其の手は静かに虚空を掴んで終わる。
「畜生」
かける言葉は無い。
「畜生、畜生、殺してやる」
眩暈がする。取り返しのつかない。
男の呪詛は続いた。左眼から流れ落ちたのは涙ではなく血であった。
「返せよ、アイツら全員…畜生」
殺す。殺してやる。殺してやる。殺す殺す殺す殺すコロシテヤル!!!
「…奴は」
「二階の自室に閉じ篭もっている。今じゃ誰も気味悪がって近付かん。気が触れたかと」
「手当ては」
「…」
───包帯と、何でもいいから布きれ寄越せ。
桂は秀麗な顔を歪めて聞き返した。
「正気か?」
「あのバカ、昔から自分の傷には頓着しねぇんだ。包帯も巻かねぇで放置してる事だろうさ」
「もうあれから二日経つ。幾らあの男でも、あんな深い傷を野晒しにしておく程では」
「さぁ、どうだかな」
綺麗に笑顔を作れたか、解らない。
「銀時。御前だって取り残された他部隊の殿(しんがり)から帰って来たばかりだろう。少し休んだ方が」
「休んでられねェんだよ」
…休むと、疲れる。
「…」
「心配要らねーよ。あんまウダウダ考えてっとマジでハゲてヅラになっちまうぞ、テメー」
「ヅラじゃない、桂だ」
古臭い階段を上る。まだ昼間だというのに随分暗い。
部屋に入った。
高杉。
名前を呼ぶ。
返事は無い。
誰も居ない部屋。
薄暗い此の部屋。
畳に点々とついた、黒く変色した血の跡。
…窓が開いていた。
「道理で…寒ィ訳だ」
曇天。
どさりとそのまま膝を負って、壁に靠れた。手が震えている。寒い所為だ。寒いからだ。
桂を呼べば、大事になる。大丈夫だ、男はきっと戻ってくる。きっと。きっと。
きっと。
…きっと。
「…なまえは?」
「さかたぎんとき。アイツがつけてやるって」
「…先生がつけたのか?それまでなまえ無かったのか?」
「しらねーよ。よばれたこともねーもん」
「コラコラ」
また喧嘩してんじゃないでしょうね。君達の喧嘩の仲裁にはほとほと疲れ果てましたからね。
「してねーよ、しょーよー」
「オイっ!『先生』をちゃんとつけろバカ!」
もーうるさいなぁ〜イチイチくちだしするんだから。
オマエ、おれにかまってほしいんだろ。しょーよーがまえそういってた
「なっ…先生!」
「え、えーとえーと、…そんなこと言ったかなぁ?」
「いったもん」
「せんせェ…」
「あは、あははは…っいた!いたいいたい!晋助さん殴らないで!」
あはははは。
あはははは。
ははは
「……ッ!!」
何故だ?夜叉の癖に。今まで沢山の仲間を見殺しにしてきた癖に 男は小首を傾げ子供さながらの無邪気さでさも不思議そうに問う。
何もかも包み込むような巨大な火の海に。 男が茫洋と呟いた恐ろしい言葉に搾り出した声が震えたが手は届かない。
時が止まった。
其の右目だけが銀時を静かにじっと見ている。 銀時はそこで漸く、この男が全くの冷静である事に気付いたのだ。
「…御前は間違ってる。護る為に今迄戦って来たんだろうが…」
血を吸った赤い地面。
「…止めろ」
楽になれよ、もう
甘い囁きに眩暈がする。差し出された手に動悸がする。
其の手を掴みかけた其の瞬間、声が聞こえた。
そんな剣もういりま
伸ばされた手。
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永遠にも見えた時間の後、やがて、男は静かに微笑む。
「 結局、手前も、俺から───… 」
彼は、確かに自分に懇願していたのに。
己も、確かに彼に懇願していたのに。
御前が望むのなら、今すぐこの左眼を抉って、御前に差し出したのに。
どうしてあの場で俺を斬らなかった。
……答えてくれよ、高杉。なぁ。
答えは無い。
涙も出ない。
開け放たれた窓から、静かな夕闇が迫ってくる。
20100129 恭