昏黒


 






 暮れなずむ夕日が窓から差込み、薄汚い廊下の床を茜に染め上げている。
 上履きが静かな空間に靴音を響かせた。下校時刻間際、通り過ぎる教室をちらりと横目で覗いても人影一つ居らず、矢張り同じ様に残照が静物を深閑と照らしているだけだ。平生の騒がしい日常からは遠く離れた光景が土方の眼に映ってゆく。だが歩調は緩まない。
 土方がこのような時間に校舎を徘徊しているのには理由があり、それというのも全く彼らしからぬ失態───というのも過大表現かもしれないが───を演じてしまったからだった。詰まる所、授業ノートを忘れた。机の中にである。
 悪意が山程凝縮された悪戯(それも土方自身の死活に関わるような)を仕掛けてくる沖田への対応に必死で、鞄に入れたかどうかも確認せずに委員会に出席した。委員会も終り帰ろうとした矢先、自分の犯した失態に漸く気付いた、という訳である。
 鬼の風紀副委員長の名は伊達ではなく、本来ならばこの男がもう間も無く最終下校時刻を過ぎてしまうだろうというこの時間に校舎内をうろつく事等有り得ないが、こうなってしまえば取りに戻るしか選択肢は無かった。明日までの課題が有る。朝早くに来てやったとしても、到底間に合わないだろうという量。それも土方にとって「鬼門」そのものである国語の宿題もその中には含まれており、何かと土方にイチャモンを付けたがる担任教師が相手ならば分が悪いというものだ。
 時計を見た。五時五十六分。───この分では、走るのも覚悟に入れておいた方が好いかもしれない。
 土方はちっと短く舌打ちし、Z組の教室のドアを開けた。…と共に、眼を見開き、その場で硬直する。
「…何だ。手前か」
 口をぽかんと開け立ち尽くす土方に、声が投げかけられる。紛れもなく男の声だ。しかも見知っている。目の前で椅子に行儀悪く座り、足を机の上に投げ出し組んでいる姿はセーラー服だったが。
 眼帯。黒髪若干癖のある猫ッ毛。誰かと問わずとも知れる。同じクラスの男子、どういった訳か知らないがセーラー服を着ている。土方の思考はますます混乱していく。
 動かない、動けない土方を見て男が哂った。切れ長のきつい眼が猫のように細められた。
「クク。酷ェ面」
「テ、テメー…」
 それだけ言うのが土方にとっての精一杯だった。セーラー服は、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。
「んだよ、文句でもあんのか」分かっていて挑発。
「女装の趣味でもあったのか。変態だな」
「言うねェ。…ちょいと、待ち人をな」
 眼を伏して哂う表情に、目が否応無く惹き付けられた。酷く、その一見滑稽を思わせる格好が似合っていると気付いた。
 元々他の生徒とは、纏う空気が違った。クラスでも近寄り難い存在のように土方にも思われてならなかった。この男は他とは違う。別の何かをその身に飼っている、とはあくまで個人的な見解に過ぎないかも知れないが。
「誰を待ってんだ」
 男にしては長い睫が意味ありげに伏せられたまま動こうとしない。紅でもさしたのか、赤すぎる薄い唇が目に痛い。
「気になるか?」
 よく見れば、男は煙草を左手に持っていた。紫煙が馨り土方の鼻にも届く。
(───この馨りは、)
 アイツと同じ。破天荒で浮世離れした教師。銀髪の…
「取り締まりもお咎めも無しか。大層な風紀委員だな」
 言われてから気付き、土方は顔を赤くした。
「…自分から申し出るたァ、好い度胸だ。教師に言いつけてやろうか。この時期の不祥事はさぞ身に堪えるだろうな」
「教師ねェ。例えば?」
 無駄だと心の内で分かりつつも土方はその名を口にする。「銀八に」
 案の定哂いが返ってきた。静かに響く。
「そりゃあ困るかもなァ。だがこれで」急に腕をひかれ、頬が密着する。
 耳元に囁く声。
「これで手前も同罪だろ」
 唇に、煙草を押し付けられた。煙草の味。苦い。咄嗟の事で何も身構えていなかった唇を押し開かれ咥えさせられ。



 次に気付いた時、土方は男を床に引き倒し馬乗りになっていた。当の土方は兎も角男の方もこれは予想外だったようで、床に背中を強く打ち付けたらしい。ほんの寸分だが秀麗な顔を歪めてみせ、だがそれもすぐに消え、先程から土方に見せている驕傲な笑みに変わった。椅子から引きずり押し倒した時に机の角にでもぶつけたのか、唇の端が切れて血が滲みてらてらと光っている。それもまた同様に土方の視線を釘付けにし、憤懣を誘った。沸々と湧き上がるもの。これは何だ。眩暈がする。
「…ふざけんのも好い加減にしろ」
「声、掠れてるぜ」
 もしかして、抑えきれてないんじゃねェの?クク、土方ァ、御前、俺に…
「黙れ!」
 拳を振り上げたが難なく受け止められ。この体勢でまだ余裕が有る。明らかに喧嘩慣れしている動きだった。
 土方の下にある顔が再三微笑み、舌がぺろりと口角の血を舐め取って引っ込んだ。動作に一々目が行く。ぞっとする程凄艶な笑みがそこにある。
「俺ァ、手前に興味持ってんだぜ、土方さんよォ」
「余り俺を失望させんなよ。何をムキになる必要が在るってんだ?」
「そうさ、俺は気に入ってんだよ。目も髪の色も全然違う癖に、アイツに似ている御前をな」
 もっと愉しませてくれよ、じゃねぇと…
 土方の視界が暗転し、次の瞬間には体勢があっという間に入れ替わっている。目も灼ける様な昏暁の紅蓮の中、男の顔は見えないが唯覗く胸元の白さだけが網膜に焼き付けられた。顔が近付いたかと思えば唇に柔らかい感触が掠め、離れる。男の口が開かれると真赤な舌が顔を出した。…喉が渇く。眩暈も。土方も哂う。
「じゃねぇと、殺しちまうぜ?」
「ハ…、」土方は力無く哂いながらも衝動に抗おうという気にはならなかった。今度は掠めず舌が入り込んでくる。男の開いた胸元に土方は手を伸ばし、また体勢を入れ替えた。今度は土方の方から口付けた。衣擦れと水音が静かなはずの教室に響いた。無機質の床に、まだ僅かに火の点いている煙草が落ちていた。土方は横目でそれを見、足で踏み潰すと同時に、何処かで琴線の切れる音を聞いた。それが最後だった。

 

親愛なるWへ。
授業中に書いて渡したブツ。(最低)

20100226