「い〜い月だ。酒にはもってこい」
そう云う白髪に目を向けた男は、ぎょっとし、次に苦々しく口を開く。
肌蹴た白い着流し。帯も乱れ、生地に負けず劣らず白い肩も足も剥き出し、そんじょそこらの遊女より酷い有様。
「手前、何だその格好は。はしたない」
「ナニって、宴会だもん。裸踊りに腹踊り、何でも来いってんだ。けーっけっけ」
もう酔いが回っているらしい。何が可笑しいのか解らないがげらげら笑うと、今度は座敷の上座から白髪の名を呼ぶ声がする。酔った桂と坂本が何故か肩を組んで、今日合流した別隊の攘夷浪士と酒を酌み交わしている。
おう金時、不謹慎な格好しおって。風邪ひいてもわしゃ知らんぜよーアッハッハ!
金時じゃねぇよモジャモジャが!今夜は無礼講だろうが無礼講!おらおらもっと飲めやァ!
座敷の芸妓も呼び、侍らせ。幾ら久方ぶりの戦勝祝いとは云え、上へ下への乱痴気騒ぎにも程が有るだろうに。半日前まで、全身に血を浴び荒れ狂った戦神の如く暴れ回っていた男とは、到底同一人物と考えられぬ騒ぎっぷり。…確かに、此処でも暴れまわってはいるが。同じく酔っ払いどもに囲まれ、馬鹿みたいな笑顔。
「フン。下らねェ」
男は、喧しい輪から外れ、窓辺に腰掛け一人酒を煽る。
煌煌と輝く銀色の月だけが、冷たく男を見据えていた。
●●●
肩を叩かれ振り向く。白髪ではなく芸妓の一人。どうして皆と騒がないのか、芸はつまらないのかと聞いてくる。媚びるような、舐めるようなその視線に気付かぬ振りをし、男はあくまでも月を見続ける。
「おーい、何やってんだよ『馬鹿杉』。こっち来い」
今度こそ、白髪の声。美人の芸妓と何事かを話している桂と坂本の傍で、だらしなく寝ッ転がっている。
「…」
「外なんざ眺めて、かっこつけんなよ〜『かっこつけ杉』。ギャハハハ!!」
「…殺す」
男は銜えていた煙管をひゅっと投げつけた。が、白髪は酔っていながらも流石は夜叉、難なく指で挟み捕らえ、何食わぬ顔でその煙管を口に含み、紫煙をふうっと吐き出す。
「こんなんで人が殺せるか〜本気でやれい!俺は泣く子も笑う坂田銀時サマであるぞ〜おおお、ヒック」
「泣く子も黙る、だろうが、この馬鹿」
その唇。煙管を銜えている。興が冷めた。元から冷めてはいたが。
「投扇興でもやってやるか。手前を的にしてな。そこに突っ立ってろ。投げてやらァ」
男は、傍らの芸妓の手から黙って扇子を取り上げ、構える。すると、扇子と共に薄い漆箱が男の手に転がり落ちてくる。板紅だ。細かい細工が施されておりうつくしい。
芸妓は、扇子を取られた事には気付いていても、恐らく板紅までもが男の手にあるとは気付いていないだろう。ぽろりと零れた、携帯用の板紅。男は黙って居る。
「扇子なんざ投げられても俺は落ちねよーだ!ウィ〜」
確かにデカすぎる的だ。
「うるせぇよ、御前。ちょっと黙ってろ」
女は、自身の扇子が男の手に有る事に対して、何らの不満をも口に出さない。
「黙りませーん。ふ〜んだ。いいもんね〜御前抜きで芸妓サンとイチャコライチャコラして楽しんでやるもんね〜」
とまで云い、『蒸気波の上』でもやろうよオネェサン、と気色悪い甘え声で酔っ払いの白髪。盛り上がる周囲。
「〜蒸気波の上 雷様は雲の上 浦島太郎は───」
最初はグー、ジャンケンポン!!!
「〜カメの上〜」
「猫の色事屋根の上。私とあなたは───」
最初はグー、ジャンケンポン!!!
「床の上〜」
負けた芸妓が仰向けに寝ッ転がり、勝った白髪が其の上に覆い被さる。周りの酔いどれも、歓声やら怒声やら野次やらを飛ばし、騒いでいる。白髪は満悦の表情で、芸妓の白い項にやらしく顔を近づけている。
…下らぬ。実に下らぬ児戯。
男は、顔を背け、闇夜に輝く月を見た。傍らの芸妓は、他の男に呼ばれ、名残惜しげに去っていった。そうしてまた一人になる。
男は、障子の隙間を猫のように音も無くすり抜け、縁側に出る。その様子を、宴の喚声の中、白髪は静かに見ていた。
●●●
「つくづくノリの悪い奴。おんな遊びの派手な辰馬はともかく、あの堅物のヅラだってべろんべろんに酔っ払ったってのに」
「興が無い」
「…や〜なヤツう〜。」
男が鳴らす三味線は、夜闇の静寂を切り裂くかのように響いた。
「手前ほど笑顔が似合わぬ男も有るまいよ」
「つまり、俺の笑顔の所為で興醒めしたと?」
「好く分かってるじゃねぇか。馬鹿面下げて、醜悪な」
安売りするなよ。
白髪が笑みを浮かべる。先程のような満色の笑顔ではない、微か、それでいて酷薄な。いろを濃くしたくれなゐの双眸。
「へぇ。じゃあなに?御前が買ってくれるワケ?」
「要相談だな」
男は、懐から板紅を取り出した。先程、扇子と共に芸妓からくすねたものである。
右の一指し指を、白髪の唇に当てる。
「舐めろ」
酔っている白髪は、普段からは考えられぬほど従順に、男の細く長い指を自らの唾液で濡らした。
濡らされ、闇の中でもぬらりと光る指で、男は紅を軽く溶く。そしてそのまま白髪の薄く開いた唇をゆっくりなぞり。白髪が目を閉じる。白銀の睫が僅かに震える。両の目尻をなぞり。
唇と目尻に紅をひいた白髪。満足げに男は哂ったが、目を開けた白髪はくねりと妙な動きをした。男は顔を顰める。
「ど〜も〜銀子ちゃんどぇ〜すっ」
「止めろ。気色悪い。買ってやらねぇぞ」
「ま、そんな事云うなんて晋ちゃんったらひどーい」
「いいから、舞え」
幽玄の三味線の音。男の懐から扇子を奪った白髪は、くつくつ笑うと、裸足のまま縁側から飛び降りて、見よう見真似の芸妓の舞。肌蹴た白い肌に、やや伸びた癖のある白銀糸。銀の月に白の着流し。目元とくちびると眼だけが紅く。
「…酔っていねぇ癖に。外道」
鬢のほつれは 枕のとがよ
それをお前に疑われ
つとめじゃえ 苦界じゃ 許しゃんせ
待てば添われる 身を待ちながら
せめて 世間を狭くする
せかなきゃね 先越す人がある
疑い晴れた この手を離せ
他所で浮気するじゃなし
車もね 来ている 夜も更ける
もしも私が鶯ならば
主の お庭の 梅ノ木で
惚れましたと
エー たった一声聞かせたい
扇子で隠した顔から、ちらりとくれなゐが覗く。
「鶯?また随分と図体のデカい鶯が居たモンだ」
「それは嫌味かな?小さい高杉クン」
男は無視する。
「…弁解のつもりか。其れとも告白か?」
「解釈はドーゾご自由に」
…小憎たらしい。男は眦を吊り上げる。
「ふふ。睨むなよ。あやしてやっただけじゃねーか」
「調子に乗るのも好い加減にしろよ」
白髪は、肩を竦める。
「鶯が気に食わねェか…なら」
浦里が 忍び泣きすりゃ
みどリも共に もらい泣きする 明烏
帆上げた船が 見ゆるぞえ アレ 鳥が鳴く 鳥の名も…
「何故鳥に拘る」
「アイツら、飛べんだぜ。スゴクね?」
「俺は好かねぇ。明け方に煩い。アレが無けりゃあ、ゆっくり寝ていられるものを」
「ハ。テメーらしい、横暴な意見だねぇ」
でもさぁ、やっぱ俺は鳥に憧れるよ。飛んでるじゃねぇか。自由にさ。
「下らん」
一蹴されたにも拘らず、微笑む白皙の面。眼を奪われた。
「そうしたらさ、見つけてやるよ、御前。今日みたく、拗ねて出て行っても、探して飛んでってやらァ」
───何を、戯言を。世迷言を。出鱈目。空言を。
「夜叉の御前が今度は翼を御所望か。これ以上人間からかけ離れて如何する気だ」
「手に入れたが最後、軽薄な手前は此処からさっさと逃げ出すだろうに」
返事は無理矢理合わせた唇の中。男は白髪の肩甲骨に手を回し、羽が生えないようにギリリと爪を立て。男の苦しげな表情を思い浮かべながら、御優しい白髪は眼を閉じてやり。月だけが見ている。
20100202 恭
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