「鬼さんとお別れの挨拶は済んだか」

 

 

 

 


 今にも笑い出しそうな低い声。男は振り向く。途端に編み笠をくいっと上げ、にかっと、向日葵のような笑み。
 頭上の曇天は、刀の色をしている。心にまで圧し掛かってくる重いいろ。
「おお。おんしまでわしの見送りか。有り難いモンじゃき〜」
 チッと、舌打ちして忌々しげに。この男と、彼はどうにも馬が合わぬ。
「ちげェよ馬鹿」
 …今も闘い続ける仲間放り出して、宙へ逃げ出す負け犬のツラ、最後に拝んでいこうと思ってな。
 彼は、そう云って冷笑を浮かべながら男の顔を見る。そうして、この男の心を掻き乱したいと思っている。
 だが、男は相も変わらず、少しも気にした様子も見せずに、にこにこしているのだった。吐いた暴言が何の効き目すら生み出さなかった事実に、彼の機嫌は急降下していく。だから、彼はこの男を好いていないのである。
「アッハッハ、おんしはまっこと、アイツ以上に手厳しい男じゃ〜」
「笑って誤魔化してんじゃねェよ。…別れの挨拶は済んだのか、と聞いている」
「ああ、ついさっき済ませてきた所ぜよ」
「ハ。浮かねぇ顔だな。それでフられた訳か」
 無言が返ってきた。馬鹿笑いから一転、この男の寂しげな笑みは、この曇天には映える。彼も、それを見て少し溜飲が下がる心地がする。
「分かっててやったんだろ。あの野郎がテメーの誘いに乗らない事ぐらい、言われなくとも容易に推察出来たじゃねぇか」
 …それでも、わしゃ、云わずにはおれんかった。
 彼の目に、ぎらりと奇妙な光が灯る。
「ほォ。あいつをここから連れ出して、助けてやろうとでも?」
「…わしは…」
 彼は笑う。紛う事なき、この男への嘲笑である。
「土産に教えてやろうか。あいつはな、助けなんざ求めちゃいねぇよ。そんな大層な御身分じゃねぇ事、誰よりあいつが理解してやがる」
 亡霊だよ。正しく彷徨える夜叉。血塗れになって、地を這い続けるしかねぇのさ。あいつが其れを望んだ所で、結局空にも飛べやしない。羽を根こそぎ毟られた鳥のように、一生、無様に独りで。
「まぁ、御前のお節介な偽善ごっこは、見ていて俺も愉しかったぜ。礼としちゃあ何だが、くれてやるよ」
 彼が懐から取り出し、投げ出したのは、一丁の小さな拳銃である。男は雪の上に転がった其れを無言で拾い上げた。
「これは…」
「餞別だ。頭狙って引き金ひきゃあ、簡単に殺せる。手前にはお似合いの武器だ」
「…刀をもう捨てろ、と言うがか?」
「ご明察の通り。仲間に背を向けて逃げ出した負け犬……手前はもう侍じゃねぇよ。分かったら、二度と刀抜くんじゃねぇ、もう二度とだ」
「おまんの云う通りじゃ」
 反論もせず、男はやはり寂しげに笑う。彼は、ふと、この男は白髪の前でこんな笑い方をした事はあるのだろうか、と疑念に駆られた。
 彼は苛立ち、まだ立ち尽くしたままの男に背を向け、歩き出す。

 十歩ほど歩いたところで、男の声が、彼をひきとめた。
 彼は不機嫌そうに、振り向きもしない。
「高杉。…おんしは、わしのようになったらいかんぜよ」
 彼はそこでやっと横顔を見せ、氷のような無感動な鶯色の目で男を見た。それでも動じぬ男は、らしくもなく笑むのを止め、一転、沈痛な面持ちで必死に訴える。
 あの男は、苦しんじょる。独りで苦しんで苦しんで……やき、奴がまっこと助けを求めとらんとしても、わしは奴を助けたかった!ほりゃあおんしも一緒がやないがか?!
「あの男を、…銀時を、何があっても護るがよ、高杉!」
 

 雪が降る。
 また歩き出した彼の耳に、男の声は遠く。
               曇天の空が重く。
                                        

                                       雪だけが、



ひらひらと舞い。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…るせェよ」
 横に咲いている赤椿がぽろりと枝から落ちるその瞬間を見て、彼は抜刀し花を滅茶苦茶に斬り刻んだ。
千切れた赤。その下に雪の白。目の眩むような明暗比。

 男の声は、いつまでも耳に残った。

 彼は、いつまでも、その色を見続けた。
 いつまでも。
 いつまでも。


 ───いつまで、も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20100205 恭