「…今、何と。」
「アッハッハ、だから英吉利ちよッくら行つてくるぜよ。」
「…いぎりす、」
坂本は貿易を営んでゐる。何も不思議な事ではなかつた。
「商談相手とチョコチョコと問題が有つてのお。何時戻れるか解らん。使用人はとりあえず引払つて貰ふ。屋敷の管理は秘書に任せた。…ああ、さうぽかんとせんでも、おんしの事はちやんと考へちよるぜよ。わしの古くからの知り合ひに頼んどる。心配せんでいい。」
「はあ。」
「これが紹介状。見せれば大丈夫じやき、…そんじやあ。おまんの事だから心配無用とは思ふが、呉々も精進じやぞ。」
斯うして早い話が追ひ出された訳であつた。
土方は、書生である。貿易商である坂本家に置いて貰つてゐる、書生である。それが突然主人の坂本から突然の通告をされ、厄介払ひをされた訳である。土方が目を丸くし呆然とするのも、無理は無かつた。坂本は豪胆な性格であり、善は急げをmottoにしてゐるだけあつて、しばしば突拍子も無い様な行動を起こすのが常であつた。其れにしても急な話であつた。貿易商であるが故に、外国へ行く事は何らおかしい事では無いが、土方がこの事実を知らされたのはたつた今、そしてこれからもう荷造りを始め、明日明朝にはもう日本を発つと言ふ。
土方は、坂本の話を聞いた後、一人割り当てられてゐる自室に入つた。床の間の中央に置かれた小さな机、そしてその横には書物が詰まれてゐた。全て土方が所有してゐるものであつた。今日中に、それらも全て荷に詰め、明日には出ていかなければならなかつた。土方は吐息を一つ吐き出した。
坂本は悪い男では無い。其の証拠に、多摩の田舎育ちの土方を書生として引き取り、資金は勿論衣食住全て保証し、今日迄土方は何らの不満も持たずかうして勉学に励む事が出来たのであつた。悪い男では無いが故に、今回の件を持つてしても土方は坂本に怨言一つ言ふ事が出来ないのは愚か、さう心中で思ふ事さへ出来ないのである。土方は溜息を吐く事しか出来ないのである。
小さ目の風呂敷包みとズック張りのトランクに出来るだけ物を詰め、入りきらないと処断した物は捨てる事にした。そして仕分けをしながら、土方はこの屋敷での思ひ出に心を馳せてゐた。一高を出、帝大に入り、其れまで一高での寮生活を営んでゐた土方が其処で初めて寝食の場に悩み、手を差し伸べて呉れたのが坂本であつた。それから一年経つた。もう、五月である。そして、今、この屋敷を土方は後にしようとしてゐる。
床に落ちた辞書に触れた。分厚い其れは、革張りの表紙で少し頁が擦り切れてゐる。坂本が土方に買つてくれた物であつた。土方は無言で、其の辞書を大事さうに叮嚀な手つきでトランクに詰めた。矢張り不思議と坂本に対して腹は立たなかつた。只一抹の寂寥が土方の胸をすうと通つて行つた。
次の朝、土方が屋敷を出た時には、もう坂本の姿は無かつた。貴方で最後です、と使用人に嫌味たらしく言はれ、もつと早く起きれば好かつたと後悔した。門をくぐり、ふと振り返ると、其の使用人が鍵をかけてゐる処であつた。ガシャン、と大きな音がした。敷地内は水を打つた様に静まり返つてゐた。坂本も何時帰れるか解らぬと言つてゐたし、もしかしたら此れが今生の別れであるかもしれぬ、と云ふ思ひに土方は駆られた。帝大を卒業すれば、書生ではなくなる。書生でなければ、彼とはもう関はりが無くなる。そもそも、住む世界が違つた。坂本は華族侯爵の身であつた。貴族院議員を務め、日本有数の貿易商でもある。加へて土方はと云へば、多摩の貧農の生まれで、地元の中学校で優秀な成績を修め東京に上京し一高に入り、そして帝大に入り、と云ふ肩書きではあるものの、生まれの賎しさは矢張り隠せない。坂本は土佐出身らしく訛りを隠さうともせず何時も笑つてゐる豪放な性格であつたが、それでも華族と云ふ華々しい身分に違ひは無い。所詮は書生と華族様の違ひである。そして土方は歩き始めた。
雀が鳴いてゐた。初夏の兆しが見え始める日差しに、土方は眼を細めた。帝大の制服は、暑い。黒地詰襟、一列金色釦の上着に揃ひの長ズボンである。日光の集中を一心に浴びてゐる。学帽を少し上に上げ、額の汗を軽く拭ふと、土方は荷物を抱へてまた歩き出す。
坂本から貰つた地図を頼りに歩き続け、目的地には二時間ほどかかつた。着いたのは、巨きな御邸の前であつた。坂本の邸も相当な大きさであつたが、其れよりも更に少し広い様に見えた。宮殿とも形容出来る程の何とも素晴らしい洋館であつた。門の前に立つ土方からは邸は遠いやうだつたが、其れでもかなりの広さを持つものだと解る。そして広大な日本庭園である。坂本繋がりであるからして、どちらにせよ相手は華族だらうとは思つてゐたが、まさか此処までのものとは思はなかつた。華族は華族でも、上級の位の家に違ひなかつた。紹介状があるとは言へ、果して受け入れて貰へるのだらうかと土方は不安に思つた。世間は恐慌、不景気一色であつた。会社が次々と倒産し、街には失業者が溢れてゐる。この御時世に、しがない書生一人が急に押し掛けて行つて好いものか。後は坂本の人脈と人望を頼るしかない。金も無い。頼みの綱は、土方が手に持つ紹介状其れのみであつた。
目の前の門の横、表札を見た。名前は、坂本から受け取つた紹介状の通りである。間違ひは無かつた。
「…此処か。」
緊張した面持ちで身なりを整へる。そして土方は声を張り上げた。
「もし、御免下さい。何方かいらつしやいますか。」
返事は無かつた。人が近くに居る気配すら無かつた。門は固く閉ざされ重苦しく沈黙し土方を拒絶してゐるやうであつた。
握つた掌に汗が浸んだ。然し此処で諦めては、今後の生活が危ぶまれる。もう一度、土方は声を張り上げた。
「御免下さい!何方か聞こえてましたら御返事なさつて下さい!」
「煩ひ。」
突如耳の後ろで囁かれた声に土方が驚き振り向くと、其処には一人の男が立つてゐた。帝国陸軍の軍服着込み、帯刀してゐる。長髪とまではいかないが男にしては少し長めでやや癖のある黒髪に、涼しげな切れ長の目元が印象的な端正な貌立ちをしてゐる。左眼の眼帯が目を惹いた。
通りすがりの軍人だらうが、大方他人の屋敷の前で大声出した土方を怪しんだのだらう、慌てて土方は男に頭を下げた。
「公衆の面前での場を弁えぬ非礼、御許し下さい。然し、自分は怪しい者ではありません、ただこの邸の御主人様に用が…。」
「怪しいか怪しくないかは俺が極める。それで、其の御主人様とやらに何の用だ。」
土方が何か言ふ前に、男は目敏く土方が手に持つてゐる紹介状に目を留め、それをさつと奪ひ取つた。勝手に封を指で破り、中を伺ひ見ようとしてゐる。土方は慌てた。
「お、お返し下さい。其れは、」
「煩ひと言つてゐる。少し黙れ。」
男は、何処までも横暴な様子であつた。土方の言葉にも耳を貸さず手紙を一瞥したかと思ふと、最後に封筒の裏面、坂本の署名を見て微かに目を細めた。
「成る程な。…此れは俺が預かる。」
「なッ…困ります!其れは人から預かつたもので、此処の御主人様に渡さねばならぬ物なのです。御返し下さい。」
「本当に煩ひ奴だな。せめて中で茶位は馳走して遣らうと思つたが止めるか。」
「え、」
土方は顔を蒼くして男を見た。男はニヤと笑つた儘、門の前に立つた。すると何時から居たのか、初老の男性が土方の視界外から現れて鍵を取り出し、門を開けた。軍服の男は門が開くなり礼もせず振り向きもせず軍靴の音を響かせカツヽヽと歩き出した。其れにも慣れた様子で一礼したのは此の初老の男性である。どうやら彼は御付の使用人らしい。と云ふ事は、此の邸の御主人様とやらは。
「…申し訳御座いません、貴方様が其れとは存じ上げませんで!」
顔面蒼白の儘頭を更に下げた土方の横を、男は立ち止まりもせずスッと過ぎていつた。
「好いから入れ。茶ならば馳走して遣ると言つただらう。」
土方は暑さの所為では無い汗を手の甲で拭つて、軍服の男の後に続いて歩き出した。続いて門が閉まる音が耳の鼓膜を震はせた。