土方は日本庭園についての詳しい智識等生憎持ち合はせては居なかつたが、此処の庭は一目で美しいと感じた。池には丹塗の橋が架かり、水面はゆらゝゝと昼間の白光を反射させてゐた。 
「余り人ン家をじろゞろと見回すんぢやねェよ。育ちの悪さが知れるな。」 
 前を歩く男に言はれ、カッと耳を赤くして土方は其処で視線を下に落とした。言葉が一々剣呑であつた。先程は此方に非礼があつたとは言へ、敵意すらも浸ませるやうな物言ひに、土方は内心怒気を湧き上がらせた。 
 庭園を過ぎ、洋館の玄関に入ると、大きなentrance hallが続いてゐた。天井に取り付けられた絢乱なシャンデリヤ、そして正面の大きなステンドグラスが豪奢に綺羅々々と輝いてゐた。西洋の教会の様な、思はず見惚れる美しさである。 
 左に曲がる。長い廊下を渡ると、salonであるらしい部屋に到着する。白大理石のマントルピィスがあつた。terraceが付いてゐる。そして細かな装飾で飾られた、高級なテエブルとチェアが中央に並んでゐた。 
「まあ、腰掛け給へ。」 
「失礼します。」 
 土方は一礼し、おずおずと腰掛けた。男が土方の正面に座り、足を組み肘掛に頬杖をついた。 
「其の制服、…帝大生だらう。年は。」 
「つい先日二十一になりました。」 
「ほォ。」 
 男はニヤヽヽと笑つてゐるだけであつた。土方は此の男の笑みが如何にも好かなかつた。口の端だけを吊り上げるだけ、目を猫の様に細めるだけの笑みなのである。精神が伴つてゐないやうに感じられるのである。憖、顔が端整であるから、人形の様に見える。 
「して、名前は。」 
 一々問質す処からして、坂本の紹介状に真剣に目を通してゐないやうであつた。 
「土方十四郎と云ひます。」 
「変はつた名前だな。何処の出身だ。」 
「多摩の生まれです。」 
「農民か。」 
「はい。」 
 淀みなく土方が答へると、男は其処で又笑つた。今度はくつゝゝと喉迄鳴らす笑ひであつた。其れが嘲笑であつたのか冷笑であつたのかは解らなかつたが、兎に角土方は馬鹿にされてゐる様な心持がした。酷く居心地が悪いと思つた。 
 華族ならば家柄を重んじる性分であつても不思議ではない。そもそも元来此の扱ひが普通なのだ。対等の様に友人の様に土方を扱つてくれた坂本が異常だつたのだ。土方はジッと黙つて其の笑声に耐へた。 
「其れで、将来は官僚にでもなる気か、帝大生。」 
「…将来如何するかは、未だ考へ中です。然し、社会の役に立つ仕事を遣りたいとは考へてゐます。」 
「ならば軍人になれば善かつたものを。───俺は、軍人以外の人種は好かねェ。学者なんざ持つての他だ。ぐだゞゞと能弁垂らすしか能の無い低俗な人間。」 
 土方は肩身を狭くした。 
 その時、先程の初老の使用人が紅茶を運んできた。戴きます、と言ひ軽く礼をして土方はカップを持ち上げた。 
「坂本の家は如何だつた。愉しかつたか。」 
「随分と善くして貰ひました。」 
 詰まらなさうに男は視線を横にずらした。 
「俺は彼奴が心底嫌ひだ。皇室の藩屏たる華族の義務を忘れ、商売なんぞに現を抜かしおつて。…奴とは昔から馬が合はなかつた。」 
 土方は返答に逡巡した。 
 紅茶の表面に視線を落としてゐると、男は更に口を開いた。 
「さう言えば、自己紹介が未だだつたな。俺の名は高杉晋助と言ふ。身分は侯爵。帝国陸軍歩兵中尉。貴族院議員でもある。尤も、現役軍人は登院しない極まりだから、名義上だけだがな。…初めまして。そして然様ならだ。」 
 高杉と名乗つた男は、其処で土方を氷の様な目で見て、椅子から立ち上がつた。そして又歩き出し、廊下へ消えていかうとする。土方は何が何やら解らぬ儘、紅茶をテエブルに置いて慌てて立ち上がつた。 
「お待ち下さい、高杉様。何処へ…」 
「然様なら、と言つたらう。茶位は馳走して遣るとは行つたが、家に引き取るとは一言も言つてゐない。茶を飲んだならさッさと帰れ。俺は忙しいんだ。」 
 坂本の紹介状は全く意味を為さなかつたらしい。土方は高杉に駆け寄り、頭を下げた。 
「何卒此処で働かせて下さい!何でも致しますから、」 
「使用人なら間に合つてゐる。下宿屋にでも行け。」 
「お願ひ致します!どんな事でも致します!」 
「…どんな事でも?」 
 土方の台詞を高杉は小さく繰り返し、顎に手を当て考へる素振りを見せた。土方の顔を再度一瞥すると、小声でかう囁いた。 
「今の言葉に二言は無いか。」  
 急に手の平返して問うた高杉に内心驚愕きつつも、土方はしッかりと答へた。 
「はい。」 
「俺を主人とし、俺の命令ならばどんな事でも従ふと誓ふか。」 
「はい。置いて戴けるならば、貴方様に生涯忠義を尽くす事をお誓ひ致します。」 
 高杉は幽かに微笑んだ。 
「ならば宜しい。本日付けで御前の主は俺だ。…早速だが御前の仕事の内容を教へて遣らう。───ある人間の世話。其れだけだ。」 
 土方は意外に思つた。小さい弟でも、息子でも居るのだらうか。 
「世話係、ですか。」 
「外の用事以外は傍に居て遣れ。其処に寝泊りしろ。衣食住の世話は全て任せる。」 
「はい。」 
「此の事は他言無用。絶対にだ。出来るか。」 
「はい。」 
 高杉の右目がぎらりと奇妙に光つた気がした。高杉は獰猛な笑みを浮かべてゐた。獲物を執拗く付け狙ふ肉食獣のやうな瞳であつた。 
 土方の耳に、高杉は唇を寄せ囁いた。 
「…地下室。行けば解る。行け。俺はもう出る。数日は帰らぬ。頼んだぞ。」 
 何かを押し殺した様な声音であつた。土方は何か不審に思ひつつも、返事をした。高杉はするりと土方から離れると、またカツヽヽと軍靴をタイル張りの床に響かせ去つていつた。数日は帰らぬと言つてゐたから、陸軍の方で仕事があるのやも知れぬ。高杉の姿はすぐに見えなくなつた。 
 地下室へ行けば解る、と言つてゐた。と云ふ事は地下室に、土方が世話を頼まれた其の人物が居ると云ふ事だらうと思つた。土方は取り合へず歩き出し、地下室を探す事にした。にしても邸は広かつた。そして使用人なら間に合つてゐる、と高杉が言つた割には、閑散として居た。使用人と言へば、先程門の鍵を開けた初老の使用人しか見かけてゐない。邸内を土方が歩き回つても、誰一人姿を見ないのであつた。其の為、来て早々一人で邸を歩き回る羽目になつた土方は、まるで人の家に空巣に入つてゐるやうな錯覚に陥り、微かな罪悪感を持て余した。 
 英吉利や仏蘭西から取り寄せた者であらう豪奢な小物や家具、踊り場の手摺に至つても細かい細工が施されてゐる。吊るされたシャンデリヤは土方の目を眩ませた。窓はステンドグラスか、蔓草模様に模られたものである。昼間の日光がステンドグラスを空かし、床の絨毯を複雑に照らし上げてゐた。在る物全てに目を奪はれながら、土方は歩いた。地下室までの道を訊かうにも、人が居ないのであれば自分で歩き回り探索を続けるより他無かつた。 
 やがて、歩き回る内に、先程入つてきた正面玄関、其の迎への階段の裏に地下へ続くらしい階段がある事に気付いた。非常に分かり辛い処に有る。此処を通れば例の地下室へ通じるのだらうか。 
 周囲に誰か人が居ないかと見渡しても誰の姿も見ず気配すら感じない。階段の下を覗き見ると、点々と壁に掛けられた燭台を以てしても照らしきれない闇が口を呆と開けてゐる。一抹の不安を感じながらも、仕方なく土方は其の階段をゆつくりと降りる事にした。階段を一段降りる毎にぎしりと音がした。地下は日光が当たらない為暗く、湿気に溢れ、冷たい。 
 長い階段を降り切ると、其処は完全なる闇だつた。上を見上げると、昼光が微かに見えた。土方は、深海の底にでも居るやうな気に襲はれた。 
 目を凝らすと、銀色のドアノブが突き当たりに飛び出てゐた。好く見ればドアが在る。土方はドアノブを掴み回し、そッとドアを開けて中に入つた。すると今度は障子がある。中は和室らしい。土方は靴を脱ぎ、障子を音も無くそろりと開けた。僅かな光が中から漏れ出でた。 
 其処は矢張り和室であつた。四方を障子に囲まれてゐる。かなり広い。大き目の置行灯が一つ部屋の中央に置いてあり、窓も無い暗闇の地下室の唯一の光源が其れであつた。 
「───誰?」 
 男の声がした。土方は部屋の隅に人の姿を認め、そして次に目を見開いた。

 

 

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