土方の瞳に映つた男は、白の着流しを着てゐた。着流しと云へば紺や黒等濃色が基本であるのに、白の着流しとは何とも死人染みてゐた。だが土方の目を惹いたのは其処ではなく、男の其の容貌であつた。肌も髪も透ける様に白く、そして目は血の様に赤かつた。土方は今迄さう云つた人間を見た事が無かつた。
「高杉…ぢやァねーな。新しい使用人か。」
 固まつてゐた土方の意識を、其の声が目覚めさせた。つい先刻会つた高杉もさうだが、行灯の幽光が照らし上げた顔の造作は人形の様に恐ろしく整つてゐた。男は土方をジッと見てゐる。土方は慌てて口を開いた。
「───本日より高杉様に御仕へする事になつた土方十四郎です。旦那様には、貴方様の世話をするやう申し付けられました。」
「へェ、彼奴がねェ…」
 男は首を傾げて、それから土方を見詰めた。
「鳥渡、顔を見せて呉れるか。俺、凄ェ目が悪いんだ。其方へ行つて好い。」
 男は訊いた。土方は「構ひません。」と答へ、居住ひを正した。男は微かに笑ひ、のそりと這つて来て、土方の顔に指で触れた。輪廓をなぞる様に白く細く骨ばつた指は動いた。くれなゐの目は、土方の瞳を見てゐた。睫まで白い。
「眉目秀麗だな。其の服、制服か。学生さんなの。」
「帝大生です。」
「其れは凄い。ねェ、勉強教へて呉れない。」
「…構ひませんが、」
 男は柔らかく微笑んだ。男は酷く痩せてゐた。着流しから覗く滑らかな鎖骨の線が、噛めさうな位くつきりと浮き出てゐた。土方と同じ位上背はある癖に、華奢な其の体型が男らしさを余り感じさせなかつた。
「土方君、よし、名前覚えた。俺は坂田銀時。宜しくね、土方君。」
「呼び捨てで構ひません。」
「ぢやあ呼び捨てにして遣るから、俺の事も呼び捨てにしろよ。」
「…旦那様に叱られます。」
「俺が何とかして置くから大丈夫だよ。ホラ、言つてみな。銀時ッて。」
「然し、」
「誰も見てねェからさ。」
 悪戯をする時の子供の様な表情で、男は自身の唇の前に人差し指を立てた。土方は困惑の表情を浮かべたが、結局押し切られて口を開いた。
「…銀時。」
「さう。善く出来ました。坂田様なんて呼び名は真ッ平だからな。其れで通して、土方。」
「其の様な無礼、働く訳には行きません。」
「敬語も禁止。間怠ッこしいのは好かねェ。」
「私は只の使用人の身です。貴方方とは違ふ。」
 言つてから、土方はふと目の前の男は高杉侯爵とどのやうな間柄にあるのか疑問に駆られた。そして何故此のやうな場所に居るのか。つい先刻、此の男は高杉侯爵を呼び捨てにした。と云ふ事は、高杉侯爵を呼び捨てに出来る関係であるのか。ならば此の容貌から考へる年齢を見て───兄弟?
 男は土方の顔を覗きこむ。
「何か俺に訊ねたいやうな顔をしてゐるな。」
「…失礼ですが、質問しても宜しいでせうか。」
「敬語敬称無しで俺に接して呉れると約束するなら何でも。」
 ぐ、と土方は返答に詰まつた。礼儀忠義を第一とする土方の矜持に、其の言は大きく反してゐた。途端にばつが悪さうに黙り込む土方を見遣つて、男は呆れ顔で言ふ。
「…そんなに厭か。普通使用人がこんな事言はれたら、喜んで従ふと思ふんだけど。」
「自分の場合は、嬉しくありません。」
「ぢや、命令だ。従へ。」
 高杉と同じく、男は横暴であつた。互ひに初めて見合つた時には、とろんと眠た気であつた赤色の瞳が、今は、はつきりと愉悦の色を浮かべてゐた。
 土方は引き攣ッた表情で口を開いた。
「…畏まりました、銀時。」
「やり直し。」
「……畏まつた、銀時。」
「畏まるは敬語表現だらう、帝大生。やり直し。」
「………承知した、銀時。」
「何処の武士だ、もつと普通に喋れ、帝大生。やり直し。」
「…………解つた、銀時。」
「宜しい、土方。」
 疲れ切つた様子の土方とは対照的に、銀時は満足気に笑つてゐる。其の儘銀時が続けた。
「───其れで、俺の世話係なんて言ふけれど、何する気。三食の御飯でも作つて呉れるの。」
「旦那様には、貴方の衣食住全ての世話をしろ、と。」
「やり直し。」
「………………旦那様には、銀時の衣食住全ての世話をしろ、と。」
 そろゝゝ土方の眉間に皺が寄り始めた事を知つてか知らずか、銀時は素知らぬ顔で自身の癖の強い髪を、右手の人差し指にくるゝゝと撒き付けて遊んでゐる。
「ふゥん。…彼奴も見果てた馬鹿だね、救ひやうが無い程に。」
「そして、此処に寝泊りしろ、とも」
「さう。其処まで言はれたの。可哀想に。」
 銀時の顔が近付き、土方の両頬を銀時の手が包んだ。白い手は冷たかつた。
「彼れの言付なんて護らなくて好い。此処には来たい時に来れば好い。来たく無いなら一生来なくて好い。」
「は、…」
「今日はもう帰んな。こんな陰気臭ひ場所で、俺みたいな人間と顔を見合してゐたら腐つちまうよ。引き止めて悪かつた。彼奴以外の人と話すの、久し振りでさ。…少し、嬉しかつたんだ。」
 土方の心臓がドクリと脈打つた。銀時の笑顔が、土方の胸を締め付けた。
「またね、土方。」
 銀時は微笑して言つた。土方の頬から、両手が離れる。柔らかく又寂しげな微笑であつた。土方の心臓が一際大きく鼓動した。何故だか、此の儘手を離しては不可ないと感じた。
 思はず土方は存外に大きな声を出した。
「お待ち下さい。」
 銀時の目が少し驚いた様にぱッちりと見開かれてゐる。気が付けば、何時の間にか彼の手首を土方が掴んでゐた。細い手首だつた。己の無意識の行動に土方は慌てふためき、掴んでゐた銀時の手を離すと赤面して頭を床に下げた。
「済みません。」
 蒼くなつたり赤くなつたり、百面相の土方の様子に、銀時が小さく笑ひ出した。
「人の手ェ掴んどいて謝るのか。面白い奴だな。」
「済みません。…如何かして居ました。」
「で、お待ち下さいとは。」
「自分は旦那様に貴方の事を任されてゐます。此の役目を果さねば、自分は旦那様に合はす顔が無い。」
「やり直し。何度言はせれば気が済むんだ御前は。」
 うんざりと銀時が答へ、土方が思はず声を張り上げる。
「…御戯れも好い加減にして下さい、俺は貴方方とは違ふんです。」
「何を怒つてゐる。高杉に身分の事で揶揄られたか。」
 図星であつた。土方は極まり悪げに視線を畳に落とした。銀時の声は土方の身体に染み渡つていくかのやうに静かに部屋に響いた。
「言つておくが、彼れのちよッかいは単に御前の事を羨ましがつてゐるだけだ。気にするやうなものでは無ひ。」
 彼の高杉侯爵が、土方の事を羨ましがつてゐる等とは到底考へられなかつた。土方の何処に羨望の要素が有ると云ふのか。財力も身分も、全ての面において高杉は土方を上回つて居る。
「信じられぬ、という顔だな。其の内解る。」
「はあ。」
「其れより、───俺は手前と友達になりたいだけだ。身分に何の関係がある。御前の主は高杉であつて俺では無いのに、如何して敬語を使はれなきやならない。俺の世話をしたいのなら、先づ其の堅苦しい物言ひを止めろ。」
 世話をしたいのなら、とはまた大きく出たものだ。土方の顔が引き攣ッた。銀時の言葉は更に続いた。
「そもゝゝ其の前に、人に世話される迄生活には困つて居ない。昔から此処で働いてゐる爺さんが居てな。其奴が身の回りの世話なら何でもして呉れる。土方も見ただらう。」
 恐らく彼の初老の使用人の事だらう。土方は頷いた。
「まあ、世話して呉れンなら其れは其れで好いけどよ。と言ふか、御前の性に合はないんぢやないの、敬語。無理してゐるのが見え見え。」
 土方は面倒臭さうに頭を掻いた後、観念して口を開いた。
「…後悔するなよ、銀時。」
 粗略な口調の低い声に、銀時は微笑みを浮かべる。
「上等。」
 此れが、二人の出会ひであつた。此の日から、歯車は歪み軋んだ音を立て、結末へとゆつくり動き出したのであつた。

 

 

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