土方が高杉家に住まうようになつてから三日が過ぎた。
畢竟土方は銀時の居る地下室で寝泊りするより他無かつた。主人である高杉侯爵が居ない間に、勝手に部屋を借りるのは気が引けるというより礼儀に反していると土方は判断した。そもゝゝ高杉の命令は、外への用事以外は銀時の傍に居ろ、そして其処で寝泊りしろというものであつた。主人と極めた男がそう仰るのだから、従うより他に無かつた。
食事の用意は彼の初老の使用人が遣つて呉れているようであつた。腹が空いたと土方が階上へ上ると、上り切つた処の床には湯気をほかゝゝと昇らせた白飯と御菜の数々が御盆に載せられ置いてあるのが常であつた。彼以外の使用人は、土方は知らない。屋敷内は何時も奇妙にひつそりと静まり返つていた。高杉侯爵は彼れから全く姿を見ないし、初老の使用人一人の気配は感じても彼も姿を見せないし、屋敷内で土方と相対するのは銀時独りであつた。
帝大から帰つて来れば、土方は直ぐに地下室への階段を下る。最初とは打つて変り、慣れた足取りで薄闇の階段を下り、扉を開けると、湿つた空気が顔を打つ。やゝ大き目の置行灯の微光が照らす白銀の光が、部屋の中で孤独に異彩を放つている。───其れが彼である。
「御帰り。」
そう云つて、銀時は笑顔を作るのであつた。土方も少し照れたような様子で、黙つて学帽を掴み下げた。其の儘無造作に床に学帽を放ると、銀時は口を尖らした。
「もつと物は大事におしよ。帝大の名がしくゝゝ泣くぜ。」
「俺の知つた処じやねェ。」
ぞんざいな口調であつた。三日もすれば、土方も此の口調に慣れた。頑として銀時は土方の異論を聞き入れなかつたのである。土方は観念して、彼を敬称付けで呼ぶ事、そして彼に敬語を使う事は控える事にしているのだつた。
「冷たい奴。」
銀時は赤い唇の端を吊り上げくつりと笑つた。無視して土方は鞄からノォトを取り出し、畳に寝転がつた。机が無いのだから仕方が無かつた。畳上に其れを広げ、課題を終らせようと鉛筆を取り出し眼鏡を掛けると、銀時が四つん這いで土方へ寄つて来て、幽かな微笑を湛えた儘黙つて土方の眼鏡を取り上げた。
「何しやがる。」
土方が反論しても銀時は土方の顔を一瞥しただけで、今度は其の眼鏡を自分に掛ける。存外似合つて居た。黙り込む土方に、銀時が云つた。
「似合うだろ。如何?」
心の中を見透かされたようで、土方は言葉に詰つた。
「嗚、凄い見えるね。俺に合つているよ、此の眼鏡。」
「───遣らんぞ。」
厭な予感がする、と釘を刺しておくと、案の定銀時は早速口を尖らせていた。矢張り勝手に貰う気であつたらしい。
「土方の吝嗇。」
「其れが無いと講義の板書きが見えないんだよ。好いから返せ。」
「ふん、返しません。俺に呉れるつて約束しない限り返しません。」
「…意味が解らん。」
銀時は拗ねた顔で外方を向いている。
彼は弱視の嫌いがあつた。土方と初対面の時、顔を見せて呉れと云い至近距離まで近付き、顔の輪郭を指で態々なぞり確かめるような真似をしたのはそういう理由であつた。
土方は、顔を逸らした銀時をじッと見、そして溜息を吐き出した。
「昨日、俺が出した宿題。ちやんと間違えずに出来たなら遣つても好い。」
土方は、銀時に文字の読書きを教えていた。如何いつた訳なのか、銀時は読書きが全く出来なかつた。帝大生、と訊いた途端に勉強を教えて欲しいと彼が云い出したのはそういう謂れであつた。
学校へ行つて居ないのか。
第一、銀時が如何いつた人物なのかは未だに土方にとつて謎の儘であつた。高杉侯爵家の地下室に蕭然と独りで居る男は、坂田銀時と土方に名乗つたのである。最初、高杉侯爵が世話を頼むと仰る人物なのだから、彼に所縁の者かと思えば、「坂田」という別姓を名乗つたのである。高杉侯爵の母方の縁者か、とも思つたが、とすれば何故此んな陰気臭い地下室等に住まう必要が在るのか。当主の縁者ならば此の広大な屋敷の何処かに豪華な一室を設けて当然ではないのか。
虜囚のようだと思つたのである。地下室はだゞッ広いが窓も無く光源は置行灯一つ、畳が敷いてあり小さな箪笥が隅にあるだけであつた。
土方は銀時の身元が気になりつつも、未だに訊けずに居るのであつた。何方せよ、高杉侯爵の事を呼び捨てにしている事実からして、銀時と彼の男は何らかの深い絆で結ばれているに違いなかつた。己の主人である高杉侯爵を高杉と敬称無しで呼ぶ銀時、ならば彼の身分や生い立ちを矢鱈と詮索する事は己の主人に対する不敬にも等しいのではないか、と土方は思い始めたのである。銀時の我儘とも云える命令に渋々従い、故に彼にはざつくばらんな口を利いて居る土方だが、本来礼節には厳しい性分をしている。今の状況ですら後ろめたく思うのに、此れ以上不敬は冒したくはない。
…
「其れ、本当。じやあ此の眼鏡本当に貰うけど、好い。」
気付けば、銀時が乱々と目を光らせて土方ににこゝゝと笑いかけていた。子供のようである。
「未だ見せても居ないのに、随分と自信があるんだな。」
「あるよ。頑張つたからね。」
土方の嫌味にも動じず、につこりと答える。答案を見る気が失せた。
「───其んなおんぼろ眼鏡が欲しいのか。」
「悪いかよ。」
「流行のロイド眼鏡でも買えば好いじやねェか。」
「お金が無い。」
此の銀時の答えは土方にとつて意外であつた。鎌を掛ける要領で、土方は此んな事を口にする。
「…旦那様は、買つて呉れないのか。」
「高杉?───嗚、彼奴ね。頼めば買つてくれるかもね。」
さらりと云つてのける銀時の顔に、一瞬何かの翳が通り過ぎたのを土方は見た。
「其れより、好いだろ。俺は御前の此れが欲しいの。だつて、御前のだつて云つたら、何だか頭良くなりそうじやないか。」
「あのなァ。」
「冗談。…土方の顔が好く見える。此れが何より嬉しい。」
土方が黙つて目を丸くし、銀時が笑つて土方の顔に手を添えた。
「睫、長いな。女に持てるだろう。」
土方は何故か動揺していた。「…其れも冗談か、」と訊ねた声は覚束無かつた。銀時は土方の反応を面白がつている節があつた。だから今もこうして微笑している。結局、此の土方の眼鏡は、二度と土方の手元には戻つて来なかつた。