眼鏡を奪つて喜んでゐる其の顏を見れど、溜息しか出て来ない。奪い返す氣がしないのは何故だらうか。面倒だからだらうか、と土方は思案を廻らせる。
 相も變はらず飽きが來ないらしい。
「…と、い、ふ、…よし、讀めた。次の宿題は。」
 讀み書きの宿題まで、土方は出す羽目になつていたのである。此れでは世話役というよりも、只の家庭教師役ではないかと思うが、その前に銀時は友人關係である事まで土方に求める。主人は世話役と銘打つて土方にこの役を投げかけたのに、此の樣だ。
「御前、好く飽きないな。眼が惡いんだらう。」
「眼が痛い。」
「其れ見ろ、眼鏡の度が合つていない證據だ。漸く返す氣になつたか。」
 冗談、と銀時はふわりと笑つて誤魔化す。だが其の笑みも惡くないと思う自分が居る。返せ、厭だ返さない、じやれ合つている内に銀時の手がたまたま土方の頬を引つ掻いた。大袈裟に痛がつていると銀時が心配する。嘘だよ、と笑うと銀時は怒る。
 ───もう心配なんかしてやらない。御前なんか友達じやなくて好い。
 拗ねる姿が、見ていて何だか愛らしいと思う。男に使う形容詞等では毛頭無いのは百も承知だが。 そんな彼の顏が曇るのは、高杉の名が出た所だ。樣々な感情が綯交ぜになつた複雜な光がその紅眼に宿るのを土方は見逃さない。
 不敬を冒したくない、だがそわゝゝと高杉の名が出る度居心地惡氣に視線を動かす土方を見かねたのか、銀時が云つた事がある。
「兄弟さ。」
 土方は思わず聞き返す。「そうは見えないだろう。」と云いはなつた其の顏は何故か自嘲しているように見えて土方は目を瞑る。

 夜になつた。
 例の使用人が用意して呉れたらしい布團が、地下室の隅に積んである。其れを敷いて、土方は横になつた。地下室は蒸し暑く濕つていた。
 あの使用人はあれ以來、本當に姿を見ていなかつた。屋敷には、銀時と土方二人の息遣いしか響いていないようだつた。…分からない事が多すぎる、と土方は天井を見ながら考える。
 目まぐるしく自分の状況はこの數日間で變はつた。坂本の家を出、高杉の家へ、そしてこの出會い。
「寢れないのか。」
 訊ねる聲は當然の事ながら銀時のものであつたが、土方は返事をせずにごろりと寢返りを打つた。土方が酷く居心地が惡いように感じるのはこの夜であつた。───銀時が寢ている姿を見た事が無いのである。夜だか晝だかも分からぬこの密室の中で、燈火がちりちりと搖れた。其の中でも、銀時の滑らかで白磁のような肌はなお一層何とも形容出來ぬ艷を帶び、土方の眼を奪わずには居られないのである。覗き込んでにこりと笑んだ顏に、土方は澁面になる。
「こつちに來るな。」
「何故。」
「何故も何も、寢るのを邪魔しているのは御前だ。」
 白子、という單語を知識として土方は知つていた。銀時もその類であろう、とすぐには推察出來た。中には日光に極端に弱い類も在るという、これは帝大の圖書館で調べた。色素が先天的に極端に少ないため、血管まで透けるように肌の色は拔け、髮の色は白く、眼は赤味を帶びる。特徴は悉く當て嵌つていた。
「暇なのさ。」
「寢ろ。」
 惡戲をする子供のように微笑み口を尖らせるが、土方は、銀時が眠れない性分である事も既に知つていた。不眠症の氣があるのかも知れなかつた。土方が寢ている間、彼は何を思つているのだろう。
「何か話をして呉れ。」というお願いに、土方は益々澁面を形作つた。
「何を。」
「何でも。御前の事が知りたい。外の世界の事を知りたい。昔の話でも、何でも好い。」
 諦めたように土方の顏を覗き込むのを止め、今度は背中越しに温もりが傳わつてくる。背中合わせになり二人寢轉んだ格好の儘、土方は溜息を吐き、やがて口を開いた。言葉は流暢にはならず、途切れ途切れに、一つ一つ土方の喉から出た。
 ───光のこと。木陰から差し込む太陽の光の眩しいこと。野原を駈け囘つたこと。近所の子供と喧嘩ばかりしていたこと。螢の光が美しかつたこと。秋の夕日に輝く金の稻穗たちのこと。…… ふと氣附くと、吐息が聞こえる。名前を呼ぶのも躊躇われた。
 土方はそつと後ろを振り返る。銀時は密やかな吐息を唇から零しながら眼を閉じていた。睫の影が燈火に搖れ、頬は滑らかな輝きを點して土方の目を釘附けにする。着流しから細い項が覗いていた。仄かな石鹸の香りがする。くらりと土方の視界が搖れた。
 御休み、と囁く聲はただ單に掠れただけだ。そして頬を撫でる。

 

 土方の口から寢息が漏れ始めた頃合、ぱちりと赤い眼が瞬いた。觸られた頬を自身の冷たい手で一撫でし、囁く。
「…御休み。」

 


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